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私の被爆ノート

わめき声あふれ地獄

2002年7月4日 掲載
伊東 豪健(76) 伊東 豪健さん(76) 爆心地から2.3キロの住吉町で被爆 =南高国見町土黒=

長崎師範学校本科二年時の十九歳、西浦上の寮から住吉町のトンネル工場に二交代制で通い、学友や工員らと魚雷の部品を製作する日々が続いていた。

八月九日、トンネル出入り口から五十メートルほど奥で旋盤を操作中、裸電球の明かりがすーっと消えた。突然、白いせん光と「ズシッ」という大音響が走り、爆風で吹き飛ばされた。悲鳴や泣き声が充満し、出入り口付近では血まみれの人々がうごめいていた。立ちふさがる軍人に友人と「学校に行きたい」と頼み込み、外に出ると立ち木が燃え、あぜ道の水路などに人々が倒れ込んでいた。一変した風景に驚きながら丘に上ると、母校から火の手が上がり、横倒しの寮も燃えていた。

校舎近くの農場には、下級生ら多数の負傷者がいた。ひどいやけどやガラスの破片が体に刺さった姿にがくぜんとしながら、二人一組で戸板に負傷者を乗せ、近くの防空ごうや道ノ尾駅などに日が暮れるまで搬送。夜、寝床の雑木林からは、赤々と燃える市内が見渡せた。

翌日、救援のにぎり飯で元気を取り戻し、必死の思いで負傷者を同駅や長与などに運んだ。急に戸板が重くなり、振り返ると亡くなっていたこともあった。ごった返す同駅広場では衛生兵らが、負傷者の無数の水膨れをメスで次々に除去。ガラスの破片は手やピンセットで抜き取っていた。わめき声があふれ、地獄の状況だった。

校舎近くの防空ごうでは、奥に寝かされた生徒ほど同駅などへの運び出しが遅れ、蒸し暑さでやけどにうじがわき始めていた。手で取り除いたり、効用があると聞いたカボチャの実を患部に付けてやることしかできず、悔しさに震えた。腹をえぐられ内臓が見えた状態で夕方まで生き永らえた下級生の姿が今も忘れられない。

三日目、搬送作業にめどが付き、鉄道を乗り継いで南高国見町の実家に帰った。髪の毛が抜けたり体のだるさがしばらく続いたが、その後、教師として子どもたちと人生を歩むことができた。(島原)
<私の願い>
世界の戦時下の子どもたちのことを考えると胸が痛む。戦争は絶対にあってはならないし、核兵器は早急に廃絶すべきだ。世界の平和を願いながら、子どもたちに原爆の恐ろしさを伝えていきたい。

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