二十三歳だった私は、四月に大陸から引き揚げてきたばかりで、長崎市松山町に下宿しながら横浜正金銀行長崎支店(現在の三菱信託銀行長崎支店の場所)に勤務していた。原爆が投下された瞬間は、銀行敷地内の防空ごう内にいた。銀行は爆風で窓ガラスが割れた程度で済んだが、「長崎駅以北は危ないので行くな」と憲兵に止められ、下宿先に戻れず銀行に寝泊まりした。
十二日昼ごろ、下宿先が心配で一人で走って向かった。道端に黒焦げの馬の死体が転がり、全身を包帯で巻いた人が大勢いたが、生きているのか死んでいるのか分からなかった。長崎駅を過ぎると誰もいなかった。ぺちゃんこになったガスタンクや兵器工場が見え、恐ろしくてひたすら走り続けた。
下宿先は、現在の平和公園の噴水辺りにあり、乳飲み子を抱えた二十代の女性と同居していた。女性の夫は出征中だった。
下宿の近くまで来たが一面焼け野原で、天皇御大典記念碑だけが残っていた。これを目印にがれきの丘を四つんばいになってはい上がると、真っ白な灰が舞い上がりきらきら光り、言葉を忘れ立ちつくした。自分が使っていた緑色の茶わんが灰に埋もれているのを見つけ、やっと下宿の跡だと分かった。家財道具はすべて吹き飛んでいた。茶わんに手を伸ばすと、突然、頭からつま先まで「ゴーッ」と洪水のような音が流れた。怖くなり何も拾わずに走って逃げ帰った。
同郷の友人は崩れた建物の下敷きになり、首だけ出して助けを求めながら息絶えたと聞いた。私も胸や腕に斑点ができたり、頭がふらふらするなど体の不調が十年続いた。被爆から四十五年後、同居していた女性の夫の親族を捜し出し、母子が原爆で亡くなったことを知った。
被爆体験を思い出して作った詩を毎朝読むと、今も涙が出る。こんな悲しみを二度と繰り返してほしくないから、毎月九日、核廃絶を訴える座り込みに参加し続けている。
<私の願い>
戦争体験者の高齢化とともに犠牲や過ちが忘れ去られようとしている。今の日本には見識が深いリーダーがいない。若者が国の在り方や世界との結び付きを真剣に考え、人間同士が争わない世界を築いてほしい。