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私の被爆ノート

顔も体も焼けた同僚

2002年6月13日 掲載
長谷ヨシ子(77) 長谷ヨシ子さん(77) 爆心地から3.1キロの県庁で被爆 =長崎市本河内町=

二十歳だった私は、同じ敷地内にあった県庁と県警本部の電話交換手として働き始め三年目だった。四人一組で日勤と当直、非番の三交代。八月九日は、日直でいつものように出勤し、県警本部の電話交換業務をしていた。

警戒警報が鳴り、私を含め日直三人を残し、他の交換手らは立山の県の防空ごうへ向かった。そのごうは、緊急時に業務ができるよう、県庁に似た部屋割りで知事室や無線室、宿直室などがあり、炊き賄いもできた。

交換室に残った私たちは業務を続けていた。税関の職員と話をしていた時、突然「ドーン」と音がしたかと思うと、開閉式の窓が爆風で閉まりガラスが飛散した。「近くに大きな爆弾が落ちた」と思った。

その後、外部からの電話が途絶えたため、県庁近くのごうに行った。正午ごろだったと思う。ごう内には県庁職員らが避難していたが、けが人はいなかったようだ。

午後三時ごろ、交換室に交換機の電源を切りに戻ったが、庁舎に異常はなかった。ごうの前で、服がぼろぼろに裂け、顔や体はやけどで赤くただれた若い男性に出会った。「どこから来たんですか」と尋ねると、「浦上から」とだけ答え、その男性は立ち去った。私は同四時ごろ、立神の自宅に帰るため、大波止から船に乗った。

自宅に帰ると、家族は皆驚き、父や妹、弟と抱き合って再会を喜んだ。父は泣いていた。

父は近所の人たちと、自宅近くの山から県庁付近が燃えているのを見て、私が生きて帰ることをあきらめ、私の好物のそうめんをこしらえ仏壇に供える準備をしていたという。

何が起きたか分からない混乱時に、家族と無事に会えた喜びは今でも忘れられない。

数日間、自宅で過ごした後、歩いて立山の県のごうに向かった。稲佐橋付近では牛や鳥、家具などが水面に浮かんでいた。電車通りもがれきの山で、道なき道を早歩きで進んだ。ごうに入ると、顔も体も焼けた電話修理士の男性が横たわっていた。悲惨な状況に言葉を失った。

玉音放送はごうで聞いた。張り詰めた緊張感が解けたのを覚えている。
<私の願い>
原爆で親せきや同僚を失った。毎年、八月九日に平和祈念式典に出席しているが、当時を思い出し涙が出る。二度と同じ過ちを繰り返してはならない。核兵器廃絶の早期実現を望む。

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