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私の被爆ノート

大勢の死人浮かぶ浦上川

2002年6月6日 掲載
阿比留 廉(71) 阿比留 廉さん(71) 爆心地から1.5キロの長崎市家野町で被爆 =対馬豊玉町貝口=

長崎師範学校(現長崎大教育学部)予科一年生で、春に対馬の奴加岳村(現・豊玉町内)から出てきたばかりだった。

九日は警報が解除され、学校で授業を受けていた。グラウンドで体育を終え、次の音楽までの合間の出来事だった。

住んでいた寄宿舎と学校の食堂の間にある食器洗い場で顔を洗っていると、飛行機のエンジン音が聞こえた。警報は解除されていたので不思議に思ったのもつかの間、ものすごい音がして目の前がピカッと光った。

とっさに洗い場の下に隠れたが、そこの屋根が崩れ、がれきの下敷きになった。どうにかはい出ると火が迫っており、その場から逃げ、貴重品や生活用品を入れていた袋を取りに寄宿舎に急いだ。

寄宿舎では一部屋に十人以上が生活していた。部屋に戻ると、勉強机も窓も吹き飛んでおり、空間しかなかった。ガラスの破片が散らばっていただけだった。

その後、いったん近くの防空ごうに入ったが、すぐに教官から「講堂が燃えそうだから消すように」と言われ、学校に戻った。講堂につながる廊下が燃えていたが、水がなかったので、級友らと力を合わせて廊下を押し倒し、何とか消すことができた。

そのときに見た光景は言葉では表現できない。ほおが焼け落ちた人、頭から背中までガラスの破片が刺さった人。けが人を戸板に乗せて道ノ尾駅まで運ぶときに見た浦上川には、水を求めて死んだ大勢の人が浮かんでいた。辺りは一面焼け野原だった。

それから数日間、学校で亡くなった人を捜したり、遺体を材木の上に並べて焼いたりした。火力が弱いため内臓がよく焼けずに、油をかけて焼き直したこともあった。箱の中に遺骨を入れて、遺族に渡したこともあった。教官たちが防空ごうの外で円になり、家族の死を悼み泣いていた光景も思い出される。

対馬に戻る途中の博多で終戦を迎えた。船で厳原港に到着し、姉が働いていた厳原郵便局に向かった。窓口にいた姉に声を掛けると、「誰ですか」と尋ねられた。それほどみすぼらしい格好をしていたのだろう。
<私の願い>
これまで学校の平和集会などで被爆体験を語ってきたが、当時のことを思い出すと、今でも涙が出ることがある。戦争は子どもやお年寄りなど非戦闘員も巻き添えにする。二度と繰り返してはいけない。

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