当時二十歳。長崎電鉄の車両課に勤務していた。一九四五年八月九日、朝起きると、空は雲ひとつない晴天だった。午前八時ごろ、蛍茶屋の電鉄車庫に出勤。「今日もお客さん(敵の爆撃機)が来るのだろうか」。午前十時の休憩時、同僚と冗談を言った。
午前十一時二分、車庫の外に出ていたら、諏訪神社の上空辺りで稲妻のようなせん光が見えた。その瞬間、六百ボルトの電線がショートし、大きな火花が見えた。
誰かが「待避、待避」と叫んだ。急いで電車下部を修理するためのピット(穴)に逃げ込んだ。同時に、ものすごい爆風が襲ってきて、屋根のスレートや電車の窓ガラスが割れる音が聞こえた。
爆風が過ぎて、ピットから出てみると、車庫の中で働いていた同僚が、逃げ遅れたらしく、割れた窓ガラスの破片でけがをしていた。
しばらくすると、辺りが曇り、黒い雨が降ってきた。警官か消防団員かが「遠くに待避せよ」と連呼しながら走り去った。仲間と一緒に、本河内低部水源地下から鳴滝方面につながる大きな水道管を通すトンネルに向かった。
数時間後、車庫の様子が気になったので、戻ってみると、勤務が休みで御船蔵町の寮にいた同僚が、けがをして避難してきていた。同僚は流れる血をふきながら、「寮は爆風で倒壊し、長崎駅から北側の浦上方面は、家も何もかも壊滅し、至る所から火の手が上がっている」と話していた。
衣類などすべて寮に置いていたので、自分自身の目で様子を確かめたかったが、どうしようもなく、結局、通勤の時に着てきた服と、会社で着る作業服だけが残った。
夜は市内全域が真っ暗闇になり、再び何事か起こるかもしれないと、みんなで昼間逃げていたトンネルで一夜を明かした。トンネルの中は、待避してきた人であふれ、お互いに昼間の出来事を話し合い、一睡もできなかった。
<私の願い>
二度と被爆者をつくるな。あの悲惨さやむごたらしさは、どんなに語り継いでも、実際目の当たりにした人の話には勝らない。核兵器そのものがなくならないと、被爆者の苦しみは癒えることはない。一刻も早く核廃絶を。