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私の被爆ノート

焼け野原で負傷者搬送

2002年5月23日 掲載
山口 照光(76) 山口 照光さん(76) 原爆投下の2日後、入市被爆 =佐世保市原分町=

一九四五年当時は二十歳。国鉄の機関士として松浦線や柚木線で乗務していた。同年六月末の佐世保空襲の直後、佐世保市内で、ぼろ切れ一枚で市の中心部から逃げてくる人を見て「日本は負けるかもしれない」と思った。その光景が、日本軍が勝っていると伝えるニュース映画の中で、海外の人が逃げ惑う姿にそっくりだったからだ。

八月九日、「長崎が全滅した。待機しておくように」という連絡があった。長崎の機関士たちが被災して人手不足になり救援に行くためだった。十一日、大村線を経由して長崎に向かったが、市内に近づくにつれ、光景は焼け野原に変わっていった。天を向いて転がり動かなくなった馬、川辺に重なり合う遺体―。それは無残なものだった。

その日からすぐに、けが人を列車に乗せ、佐世保の各駅に降ろすピストン輸送が始まった。諫早駅前で、五十歳ぐらいの男性が、背中一面にうじがわいているのに、何事もないように歩いているのを見た。「人間はこうなってしまうものなのか」と、言いようもない気持ちになった。

二十時間以上連続で乗務し、夜露をしのぐ場所さえなく線路に寝たことも。疲れはたまる一方で「運転中に事故を起こすといけないから休ませてくれ」と言ったら、同僚がけが人であふれる駅のホームを指さし「あの人たちを運ぶのがおれたちの務めばい」。それからは何も言わずに仕事を続けた。

途中の駅では、地域住民が重傷者から順に降ろし、近くの学校や公会堂に運んで看護していた。当時はボランティアの組織はなかったが、強い連帯感が人々を動かしていた。

約二十日後、実家に戻ると、一目見るなり母が「お前は幽霊になってやせんか」と言った。十キロもやせていた。その後体調を崩し、約四年間入院したが、会社からあの二十日間に対する恩賞はなかった。何のために働いたか。病気が完治しても心にはぽっかり穴があいたままだ。
<私の願い>
もう戦争は嫌。核兵器廃絶運動もしてきたが、平和のためには肌の色や宗教、文化が違っても、人間同士、お互いを尊重することに尽きる。笑って楽しく暮らせる世界になってほしい。

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