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私の被爆ノート

出迎えた父の姿に涙

2002年5月16日 掲載
西村 政子(74) 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆 =五島新魚目町小串郷=

五島新魚目町の親元を離れ、長崎市大橋町にあった三菱兵器製作所の精密工場計器室で魚雷の部品を作る毎日だった。

あの日、空襲警報が解除され、空襲の被害から守るため窓際の床下の収納庫に入れていた部品を取り出し終えた途端、ピカッとせん光。とっさに空の収納庫の中に飛び込んだ。何がどうなったのか分からず、しばらく身を潜めた。隣の作業室からはガスが爆発したような音が聞こえた。

収納庫のふたは開いたままだった。落ちてきた角材などが頭上をふさぐ格好だったため、無傷だった。角材を押しのけ室内を見渡すと、一緒にいた同僚六人の姿がなく、窓ガラスが散乱していた。工場の外に出ると大勢の工員らが集まり、ガラスの破片が刺さり全身血だらけの人もいた。

住吉トンネル工場に避難した。途中、民家から炎が上がり、黒こげの死体、やけどで顔が膨れ上がった人たちを見た。畑には黒こげの牛。腐ったような異臭もあった。

トンネル工場には、負傷者が大勢避難していた。しばらく休むと「けがのない者は郊外に逃げろ」と指示を受け、一人で道の尾方面へ向かった。上空に敵機を見つけ、小川に身も隠した。

歩き疲れ、途中にあった防空ごうに入れてもらった。中にいた見知らぬ人から乾パンをもらって食べた。休んだ後、外に出ると、一緒に働いていた女子工員とばったり会った。ガラス片で血だらけ、服も破れ、つえを突いて歩く姿にがく然とした。

郊外へぞろぞろと避難する集団の後をついて歩き、夕方、長与の小学校にたどり着いた。校舎は包帯姿の負傷者らでいっぱいだった。同郷の学生たちの姿もあり、無事でほっとした。

翌日、列車で佐世保市の相浦港に移り、故郷に向かう船に乗せてもらった。船は敵機を警戒し、木や葉でカムフラージュ、夜間に海を渡った。当時十七歳。伝馬船で港まで迎えに来てくれた父の姿を見ると、涙があふれた。家では母親が「連絡が取れずに心配した」と無事を喜んでくれた。

振り返ると、爆心地のそばで被爆しながら無傷だったうえ、後遺症に苦しむこともなかったのは奇跡的。同僚の消息が今でも気になっている
<私の願い>
兄の一人はビルマで戦死した。多くの貴い命を奪う戦争はあってはならない。憎むべき核兵器は即座に廃絶すべき。平和な世界を切実に願う。

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