三菱兵器製作所で魚雷の先端部に使う鉄板を自ら加工しながら、二十人の女学生にも鉄板に穴を開ける作業手順を教えていた。当時十七歳で、小江町の自宅からは通勤に時間がかかるので、家野町に下宿していた。
その日は、午前九時すぎに空襲警報が鳴り響き、工場内の女学生たちを住吉町の防空ごうに避難させた。間もなく帰ってきた女学生に警報の解除を聞き、しばらく仕事を続けていると突然、青白い光が走り、思わず両手で顔を覆った。
意識が戻ったときには、立っていた場所から二十メートルほど離れたところにうつぶせで倒れていた。工場の鉄の柱は根元から曲がり、おびただしい数の鉄くずなどが散乱。生きているのか死んでいるのか分からない人が付近にいっぱい転がっていた。
無我夢中で工場の外に逃げると、複数の同僚から「背中の傷がひどかよ」と言われた。熱いという感覚があり、よく見ると頭と背中からの出血がひどくて、ズボンが真っ赤に染まっていた。
みんなが本原方面に向かっていたので痛みをこらえて歩いた。山道でしゃがんでいたら、居合わせた同じ工場の人が背中に突き刺さったままのガラス片を抜いてくれて「諫早から応援が来るから頑張れ」と励ましてくれた。
木にもたれて座り込んでいると、親しい同僚の友人がおぶって下大橋の線路沿いまで連れていってくれた。その日の深夜、汽車に投げ込まれるように乗せられて着いたのは川棚駅だった。
川棚町の海軍の施設に運ばれて治療を受けたが、ガーゼを当てられるだけだった。傷口からうじがわいて臭かった。施設には三百人ぐらいが運び込まれたが、すぐに百人前後が亡くなったと随分たってから聞いた。その後、近くの海軍病院に移って治療を続け、終戦を迎えた。
わたしが川棚にいることを知った両親が八月の末に迎えに来て、小江町の自宅に一緒に帰ることができた。
あのときの爆風で右手に三十二個、頭に数個、背中に二百以上のガラス片が刺さった。いまだに体内に残っているものもあり、時折、激しい痛みを伴うのがつらい。
<私の願い>
戦後、本当に日本は豊かで平和になった。自衛隊の今後の在り方がどうあるべきか分からないが、悲惨な戦争の起こらない世の中であってほしいと切実に思う。