当時二十三歳。県職員として電話交換手をしていた。普段は県庁で勤務し、警戒警報が鳴ると立山の県の防空ごうへ移っていた。四人一組で、日勤と当番、非番といった勤務体制だった。
一九四五年八月九日は、前日の夜が当直勤務だったため、朝十一時前に帰宅した。朝ごはんを食べ終え、掃除をしようとしていた瞬間だった。目の中に大きな光が“ピカッ”と入ってきた。
「近所に大きな爆弾が落ちた」と思った。爆風で家の窓ガラスがバリバリ割れ散った。「とにかく逃げなくては」と、弟と二人で自宅から山手にある八坂神社へ駆け上った。父は「家が心配だから」と、そのまま残った。
神社からは長崎市内が一望でき、至る所から火の手が立ち上っているのが見えた。県庁の方角も燃えている。同僚の安否が気になって、立山の防空ごう(現在の県立長崎図書館の上)へ向かった。非番の日でも警報が鳴ると、立山に行くことになっていたからだ。
寺町を通って、立山に着いたのが午後三時ごろ。防空ごうに入ったら、電話修理士の男性五、六人が戻ってきた。偶然、浦上方面で仕事をしていたらしく、顔も体も焼けただれた姿に言葉を失った。「こんなひどいけが、助かるのだろうか」。皆さん亡くなったと聞いたのは、ずいぶん後のことだった。
防空ごうの中は、緊急時に備えた業務ができるよう、県庁と同じように部屋ごとに区切られていた。電話交換室や宿直室もあり、炊き賄いもできるほどだった。
その後も空襲警報が鳴りやまず、米軍機が低空飛行を続けていた。自宅に帰ることもできず、数日間、防空ごうの中にとどまった。
警察や各関係団体から、ひっきりなしに電話が鳴り続けた。その応対で缶詰状態が続いた。「人が倒れている」「家が燃えている」など、次々と集まる連絡を通して、空襲とは違う状況を感じ取ったのをよく覚えている。
<私の願い>
幸い、けがをすることもなかったが、その後、ひどいやけどをした人や、けがをした人の思いや姿を見聞きすると、つらい。あんな残酷な行為を、人間としてしてはならないし、これから二度と起こってはならない。