当時二十四歳。近くの小学校で軍服を縫ったり、町内で竹やりの練習などをする毎日だった。自宅は農家だったが、農作業ができる状況ではなかった。頭の中は戦争のことでいっぱいだった。
九日は、朝から近所に引っ越して来た知人の片付けを手伝っていた。道端で洗い物をしていたとき、空襲警報が解除になり防災ずきんを取った。頭上を飛行機が通る爆音がし見上げた途端、熱風を顔に受けた。「しまった」と思った瞬間、爆風で道の反対側に吹き飛ばされた。
顔は火をかぶったように熱く、周辺からも熱を感じたため、しばらくうずくまったままじっとしていた。「ずきんを取った自分を狙い爆弾が落とされた。巻き込んだ周囲の人に申し訳ない」と、今思えば的外れな自責の念にかられ顔を上げることができなかった。
捜しに来た人に付き添われ、防空ごうに避難した。だが、家にいた父が心配で、その日のうちにごうを抜け出し自宅に帰った。自宅の壁は抜け落ち、窓ガラスは割れて骨組みだけになっていた。父は無事だった。
家の修理などをして過ごしていると、学徒動員で長崎駅で働いていた親せきの男の子が「城山の自宅が心配だが、たどり着けない」と助けを求め自宅を訪ねて来た。
十一日、父と男の子と三人で大八車を引き城山に向かった。途中、熱とがれきで大八車のタイヤは破れ、父から「危ないから大八車を持って家に戻れ」と言われた。引き返そうとしたとき、やけどで体が赤くただれ、皮膚が垂れ下がった人たちが「大八車に乗せてくれ」と、はい出てきた。
あっという間に腕をつかまれ身動きが取れなくなった私は、この世のものとは思えない光景に恐怖を覚えた。大八車が壊れ、小柄で体力的に人を運ぶことができず「ごめんなさい」と、すがりつく手を引きはがした。腕を握っただけで肉が取れ骨が見えた人もいた。「一人だけでも助けることができなかったか…」と今でも悩む。
父たちは城山にたどり着いたが、男の子の生き残った家族はおらず、身内と思われる遺体をだびに付し墓に埋葬したと、後で父に聞いた。
<私の願い>
被爆したときの状況は思い出したくないのが正直な気持ち。だが、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、戦争の悲惨さを後世に伝えていく必要がある。