長崎市立神町の三菱長崎造船所の工場で塗装工をしていた。二十九歳だった。平戸に住む両親から数日前に受けた連絡で幼なじみのいとこの戦死を知り、遺骨と対面するため九日平戸に帰った。
このとき、親せきが顔を合わせるや否や「長崎が燃えよるらしい」と話してくれた。長崎市稲佐町三丁目の自宅には幼い娘と妻を残してきただけでなく、隣には義父母も住んでいた。兄と義妹も市内にいた。居ても立ってもおれなくなり、九日のうちに列車で長崎へとんぼ返りした。
列車は道の尾駅で止まった。駅構内はけが人でごった返し、向かいに停車中の列車内にも負傷者がたくさん乗っていた。「新型爆弾」の猛威という。聞いたことがない言葉に不安が募った。
列車を降り、線路沿いに浦上方面へ向かった。途中、橋の欄干にもたれて亡くなっている人を見た。着衣は残っていたが、顔は焼けてしまっていた。「助けてくれ」と聞こえてきそうだった。すれ違う人は何も言わず、まるでアリの行列のように線路脇を歩いていた。岩川町や茂里町の三菱長崎製鋼所の工場は、鉄骨がまるで水あめのようにぐにゃりと曲がり、無惨な姿をさらしていた。
稲佐町の自宅は、周囲の家と一緒に爆風でなぎ倒されていた。しかし隣の義父母の家は半分傾きながらも残っていた。原爆投下時に義父母宅にいた義母と妻、娘は無事だった。荷物を取ろうと床下に掘っていた防空ごうにたまたま入っていたため下敷きにならずに済んだという。義父は香焼の造船所に出勤していて助かった。安心して気が抜けた私は食欲が出ず、平戸から持参した握り飯も食べられなかった。
銭座町に住んでいた兄は九日の朝、仕事に出掛けたらしかった。勤務先や市内の救護所などを約一カ月捜し続けたが見つからなかった。妻の妹は三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆。体のあちこちにガラスが刺さり、大村市の病院に運ばれて一週間ほど治療を受けた後、稲佐町の実家に帰宅。心底ほっとした。ただ、行方不明の兄のことが今でも心に重くのしかかる。
<私の願い>
敵、味方関係なく犠牲者が出る戦争の愚かさを子どもたちに知ってほしい。そのためには、大人が核兵器の無意味さなどを伝えていくことが大切。そして真の世界平和が実現することを望む。