長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

死体の山 地獄絵さながら

2002年4月11日 掲載
森田 宏(67) 爆心地から2.6キロの自宅近くの畑で被爆 =東彼川棚町白石郷=

私は当時、長崎市の片淵町三丁目に住んでおり、上長崎国民学校の五年生だった。長崎市は昼夜を問わず敵機が来襲。爆弾が投下され、毎日、何百人もの死傷者が出ていた。

昭和二十年八月九日。その日は朝から晴天無風だった。十一時少し前、母と一緒に家の近くの畑で農作業をしていると、東の空にB29爆撃機の銀色の機体が見えた。敵機の来襲は毎日のことであり、特に気に留めなかった。

しばらくすると真っ赤なものすごいせん光がした。母の指示で慌てて近くの防空ごうに逃げ込んだ。しかし母は逃げ遅れ、爆風に吹き飛ばされて負傷していた。後に母は原爆症の疑いのまま亡くなった。私の家は木造だったが、爆風で屋根が飛ばされていた。

全身焼けただれた人や顔中傷だらけで性別さえ分からない人、衣服が肌に食い込んでいる人などがいた。数百人の人が浦上方面から本原、西山を越えて歩いていた。

「助けてください」「水をください」と口々に叫んでいた。だれかが水を与えるとすぐに死ぬ人もいた。町内の人たちは、けがをした人を助けようとしたが、薬品も満足になく包帯で止血するのが精いっぱいだった。

私たちは、防空ごうで生活するようになった。生活を共にした人の中に、爆心地付近で被爆し、息も絶え絶えな看護婦見習いの若い女性がいた。負傷した耳の中ではウジ虫が動いていた。消毒液もなく、私たちにできることは、みんなでウジ虫をつまみ出すことだけだった。この女性は数日後、防空ごうの中で息を引き取った。悲しくて涙が止まらなかったことを今でも覚えている。

母に連れられて西山四丁目の峠を越え、本原から大橋を通って道ノ尾まで食料の買い出しに行ったことがあった。大橋の下の水辺には、死体がいくつも折り重なっていた。これは水を飲みに行き、飲んだ途端に死んだ人たちだと聞いた。死体の山は地獄絵さながらだった。
<私の願い>
現在、被爆者相談員として被爆者の心や体、諸制度についての相談を受けている。悩みを抱えている被爆者の支えになりながら、原爆の悲惨さを後世に語り継がなければならない。

ページ上部へ