当時、住まいは長崎市銅座町にあり、家族は両親と4人きょうだいを合わせて6人。父は長崎市の三菱兵器工場で働いていた。長兄は徴兵され、姉は県庁勤め。次兄は市立商業学校に通っていた。
あの日。かんかん照りで、セミの鳴き声が騒がしい朝だった。銅座橋のたもとで、大工道具と板を2、3枚使っておもちゃの飛行機を作っていた時だった。
飛行機の爆音が聞こえたその瞬間、ピンクとブルーが混じり合ったような色の光が道路一面に広がった。「バシッ、グアーン」。1秒後に大きな爆音が聞こえた。すさまじい風が吹き荒れ、あちこちから物音や「逃げろ、逃げろ」という叫び声が聞こえた。薄暗くなった空には、ブリキのトタンや畳、布団などが宙を舞っていた。
近くの狭い路地へ駆け込むと、母に腕をつかまれた。母と鍛冶屋町の小さな防空壕(ごう)に立ち寄った後、一緒に銅座町の大きな防空壕へ向かった。母はそれから用事で出掛けたため、1人になりとても不安だった。夜遅く母と姉が防空壕に帰ってきたが、2人とも泣き顔で、父と次兄を心配しているんだなと察した。
夜中、姉から起こされると、父が防空壕に来ていた。だが、全身白い布で頭から足までぐるぐる巻きにされ、開いているのは目鼻口だけ。後で知ったが、父は勤務先の工場で被爆し、戸板に乗せられ6、7人によって運ばれて来たのだった。
翌10日朝早く、母と2人で次兄を捜しに出掛けた。長崎駅を過ぎたあたりから景色ががらりと変わり、この世のものと思えない惨状だった。建物は全くない焼け野原。洋服がぼろぼろに焦げ、ちぎれた死体があちこちに転がっていた。茂里町まで来ると、母が急にその場にしゃがみ込み「苦しか、苦しか」と言い出したので、出直すことにした。
防空壕に戻ると、父は亡くなっていた。自宅へ連れ帰り、その日のうちに近くの広場で材木を井形に組み、火葬した。完全に燃え切らずに足首は生身のまま残り、悲しかった。遺骨はバケツに入れ、持ち帰った。
11日。朝早く次兄の学校の友人が自宅を訪れ、次兄の死を伝えてくれた。学校の屋外で作業中に大やけどを負いぐったりした次兄に対し、その友人は作業帽に池の水を入れて飲ませたと言う。母は大泣きしながら友人に丁寧にお礼を言っていた。
<私の願い>
戦後生まれの人が多くなり、戦争が歴史上のこととして流されてしまわないか心配だ。人間が健やかに、豊かに過ごすことが平和。原爆の悲惨さ、平和の大切さを、血を吐くほど語り続け、長崎を「最後の被爆地」にしてほしい。