川島 小枝
川島 小枝(80)
爆心地から約4キロの長崎市西小島町の自宅(当時)で被爆 =長崎市片淵5丁目=

私の被爆ノート

爆音響き、畳が数回回転

2002年4月4日 掲載
川島 小枝
川島 小枝(80) 爆心地から約4キロの長崎市西小島町の自宅(当時)で被爆 =長崎市片淵5丁目=

長崎市内の三菱電機の工場で、一九四四年から報国隊の女子学生の指導をしていた。飛行機部品製造の作業。報国隊だけで目標に達しない日は私も残業した。

四五年四月に結婚し退職した。夫はその五日後、軍から召集されて市内の司令部詰となり、ほとんど帰宅しない。自宅で祖母との二人暮らしとなった。二十三歳だった。

「あの日」は自宅にいて、「胃が痛い」と言う祖母の背中をさすっていると上空を飛行機が通る音がした。廊下に出て外に目を向けると、浦上方面に光るものが落ちるのが見えた。

部屋に戻ると同時にものすごい光に包まれた。自宅は浦上方面が見渡せる高台にあったため、同方面から無数の光る玉が飛び散るのが見えた。いくつかが自宅下の小学校にも当たり、二階部分が崩れ落ちた。

自宅の土壁にも飛んできて、壁が畳一枚分ほど抜け落ちた。とっさに祖母をおぶって土間に下りた。その途端、爆音が響き、振り返ると、部屋の畳がすべて立ち上がって数回回転したかと思うとバタバタと倒れた。たんすの引き出しも飛び出し、洋服が宙を舞っていた。

爆弾が落ちたと思い、祖母をおぶったまま近くの防空ごうに走り込んだ。茂木方面に外出していて助かった夫がごうにやって来て「無事な姿を見て安心した。どうにか生き延びてくれ」と言い残して行った。

翌日、自宅に戻ると、浦上方面が火に包まれ、山の方へ炎が燃え上がっていく光景が目に入った。三日三晩燃え続けていたことを覚えている。

それから数日間、近くの松林にむしろを敷き、町内婦人部の一員として、避難してきた人たちの救護に当たった。どの人もやけどで体が赤くただれ、皮膚が垂れ下がった状態で、見るに堪えなかった。若い人たちが多かった。

家からありったけの薬を持ち寄ったが足りず、うちわであおいだり、名前を聞き出して洋服に書いてやるのが精いっぱいだった。

十五日、玉音放送は自宅のラジオで聞いた。勝つと信じていたので、悔しくて三日間ぐらい泣いた。
<私の願い>
現在の平和は、多くの若者らの犠牲があってのもの。それを認識し、次世代に戦争の悲惨さを語り継ぎ、再び子どもたちが銃を持つことがない世の中にしなければならない。

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