長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

負傷者や子供助けられず

2002年3月14日 掲載
大津千鶴子(74) 爆心地から1キロの長崎市目覚町で被爆 =佐世保市原分町=

看護婦を目指し、長崎市目覚町の三菱病院浦上分院で働き、勉強していた。十七歳の夏だった。

九日もいつものように仕事をしていた。廊下で昼食の手続きをしていたとき、突然周囲が明るくなり、とっさに目と耳をふさいで伏せた。木造二階建ての分院が崩れ、背中に衝撃が走った。

がれきの下敷きになり、外にはい出ると、昼間なのに薄暗かった。「看護婦さん助けて」。皮膚が焼けただれ、お化けのようになった人たちが何人もうつろな表情で話しかけてきた。夢を見ていると思った。怖くなり、病院裏の防空ごうに逃げた。負傷者と死者でいっぱいのごうの中にしばらくいたが、煙が入ってくるため外に出た。

あちこちから火の手が上がり、分院にも燃え移った。がれきの下には逃げ遅れた看護婦や患者がいたが、自分一人では助けることができず、たくさんの人の叫び声とともに焼け落ちる分院をただ見守るしかできなかった。

必死に水を飲む傷ついた兵士を「きさま、軍人だろ。しっかりしろ」としかる上官。死んだ母親の乳房を必死にすする子ども。この状況を目の当たりにし「早くこの場から逃げたい」と思った。

郊外から家族を捜しにきた人たちに出会い、救援列車が道の尾駅まで来ていると知った。列車にはたくさんの人が横たわっていたが、貨車にどうにか乗り、大村駅までたどり着いた。駅舎の外で夜を明かしたが、赤く染まった長崎方面の空を見て、大変なことが起きたとあらためて感じた。

翌日、伊万里経由で北松江迎町の実家にたどり着いた。ぼろぼろの服とぼさぼさの頭、傷だらけの体。心細さと恥ずかしさで人前を歩くのが怖かった。

実家裏の防空ごうからしばらく出ることができなかった。看護婦の姉がブドウ糖とビタミンCの点滴を続けてくれたおかげで、どうにか元気を取り戻すことができた。

その後、結婚、出産したが、被爆者ということに負い目を感じ、夫や子どもたちにも話せなかった。母親の乳房を必死にすすっていた子どもを助けることができなかったことが今でも悔やまれる。
<私の願い>
私たちの青春時代を奪った戦争。罪もない人たちが殺し合う戦争。争いは何も生み出さず、多くの人に一生背負わなければならない傷を残す。地球上から争いが消え、人々が平和に暮らすことを切に願う。

ページ上部へ