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私の被爆ノート

助けられず心の痛みに

2002年2月21日 掲載
小崎 登明(73) 爆心地から2.3キロ、長崎市赤迫の三菱兵器トンネル工場内で被爆 =長崎市本河内町=

一九四五年八月九日木曜日。当時十七歳。赤迫の三菱兵器トンネル工場で、航空機用の魚雷部品を作っていた。午前十一時ごろ、突然、耳をつんざくような大きな音とすごい爆風がトンネルの中に入ってきて、横倒しになった。

身を起こすと、トンネル内は真っ暗。隣にいた少年工員と「どうしたんだろう」「外でトンネル増設に使うダイナマイトが爆発したのだろうか」などと話した。

しばらくすると、女子学生がふらふらと寄ってきた。ランプを彼女の顔に近づけると、髪の毛がじりじりと燃え尽きていた。近くに大きな爆弾が落ちたことが分かった。

海軍警戒隊員に威嚇され、仲間の工員二、三人と工場を出たのが原爆が落ちてから約一時間後。トンネルの外の風景は、朝と一変し、緑の山や木々、家は燃え、たくさんの死体が転がっていた。

土煙と炎に行く手を阻まれ、今の花丘町の小高い丘に上った。浦上一帯に煙が立ち上り、空を炎々と焼いているようだった。「こりゃ、ひどい」。恐怖で足ががたがた震えた。

以前働いていた三菱兵器大橋工場へ自然と足が向いた。工場は破壊され、死体が散乱していた。材木の下敷きになった女子学生を救出した。担架で線路まで運ぶ途中、敵機の音が迫り、担架ごと置いて逃げてしまった。

午後三時ごろ、母親が心配になり、自宅に向かった。自宅は爆心地から約五百メートルの岡町。父を幼いころ亡くし、母と二人で暮らしていた。浦上川に架かる本大橋が爆風で折れていた。川州で足をけがした男の子から助けを求められた。しかし、「母親が心配だから」と、すがりつく男の子を振り切った。

大橋付近で女の子が泣いていた。家の下敷きになった女の子の母親の髪の毛が見えたが、一人では助けられなかった。やっとたどり着いた自宅は燃え尽きていた。「母ちゃーん」。叫んでも姿はなかった。見回しても死体を見つけることさえできなかった。その後、トンネル工場に引き返し、眠れないまま一夜を過ごした。

極限の状態では、自分の心の弱さをさらけ出してしまう。助けられなかった「痛み」は重荷として消えないが、なぜ一度に多くの人が死んでしまったのか。人が争うことを憎み、改めなければ、求めるだけでは平和は来ないと思う。
<私の願い>
今の原爆は、強力な破壊力があり、人類の滅亡につながる。核兵器廃絶と戦争のない世界の平和を願う。平和の原点は、人の痛みを分かる心を持つこと。あなたの隣にいる人の痛みを。

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