浦部 豊子
浦部 豊子(71)
爆心地から約1.2キロの長崎市大橋町(当時)で被爆 =長崎市界町1丁目=

私の被爆ノート

延々と続く悲惨な光景

2002年2月7日 掲載
浦部 豊子
浦部 豊子(71) 爆心地から約1.2キロの長崎市大橋町(当時)で被爆 =長崎市界町1丁目=

県立長崎高等女学校三年生で、報国隊員として三菱兵器製作所大橋工場に宝町の自宅から通っていた。当時十五歳。戦争で日本が勝利することを信じ、魚雷の部品などを作っていた。

あの日もいつものように工場で作業しているとサイレンが鳴り響き、避難場所に逃げ込んだ。空襲警報が解除になり、工場に戻って機械を動かし始めた途端、ピカッと目もくらむせん光が走った。屋根のスレートがバラバラと音を立てて崩れ落ち、窓ガラスも割れ、破片が飛び散った。

「伏せて!」と班長が叫んだ。私はとっさに機械の下に潜り込み、揺れが収まるのを待った。周囲からうめき声や「助けてー」と叫ぶ声が聞こえた。何が起こったのか全く分からなかった。

しばらくして揺れが収まった。立ち上がって周りを見てがく然とした。工場内は足の踏み場もない状態。工員らは黒くすすけていたり、顔中血だらけの人もいた。私は頭や足にけがをし、逃げるのに精いっぱい。まさに修羅場だった。

私は友人と本原町を通り、女学校を目指した。家々は焼け落ち、人々の体はやけどで赤くただれ、悲惨な光景が延々と続いた。川では体がはれ上がった人たちが水を求め倒れていた。子どもの遺体に手を合わせてその場を通り過ぎた。急に涙が込み上げてきた。

学校の近くで、大阪にいるはずの叔父に会った。叔父は式見の実家に行く途中だった。私はそこで友人と別れ、式見に行くことにした。夕方、実家に着くと、既に疎開していた母が出迎えてくれ、抱き合って喜んだ。父も無事だったが、二歳下の妹はその日は戻ってこなかった。

翌日、父は妹を捜しに行ったが見つけることができなかった。心配が続いたが、数日後、妹は無傷で帰ってきた。家族が全員そろい、ホッとしたのを覚えている。

十五日、「玉音放送」を聞いた。母が戦争が終わったことを教えてくれた。(当時は)勝つと信じ、汗と油まみれになって働いていたので残念と感じた。
<私の願い>
戦後、後遺症で苦しんだが、今は穏やかな日々を送っている。この平和は、多くの人の犠牲があって得たもの。いつまでも続いてほしいと心から願っている。

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