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私の被爆ノート

至る所に黒焦げの遺体

2002年1月31日 掲載
浅野 茂義(72) 爆心地から4キロの長崎市東山手町の旧制海星中学校で被爆 =長崎市高丘2丁目=

その年の三月に旧制海星中学校を卒業。十六歳だったわたしは二人の友人と学校に残り、助手として銃の撃ち方やほふく前進を教える「軍事教練」の授業を手伝っていた。あの日は夏休みで授業はなかったが、疎開先の湯江町(現在の北高高来町)から、いつものように叔父と早朝の汽車で学校に向かった。

職員室の隣の部屋で少し早めの昼食を取っていた時だった。窓の外からピカッと光線が差し込んだ。わたしはびっくりしてとっさに机の下に潜り込んだ。と同時にドーンと爆発音がして天井や壁が崩れ落ちてきた。

しばらくして恐る恐る立ち上がり、急いで運動場に出た。幸いわたしも二人の友人も擦り傷程度しかなく、三人で学校の防空ごうに避難した。

防空ごうは通りすがりの人や近所の人ですぐにいっぱいになった。けが人の傷の手当てをして一夜を明かし、翌朝早く長崎駅に向かった。

駅に張り紙で、列車は道の尾駅までしか運行していないことを知った。家の倒壊やあちこちで起きている火災でどこが道路か分からない状態。線路の上を歩き、道の尾駅を目指した。ほかにも多くの人が線路を歩いて避難していた。

線路沿いには至る所に黒焦げの遺体が転がっていた。その数は宝町辺りから次第に増えた。まだ息のある人はうずくまり、わたしを見ていた。力が残る人は弱々しい声で「助けてくれ」「水を飲ませてくれ」と手を差し出してきた。

わたしは大やけどで無残な形相になったその人たちの顔を見て怖くなった。ズボンのすそをつかんでくるその人たちの手を払いのけ、小走りで逃げた。なぜあの時に水を飲ませたり、励ましの言葉をかけられなかったのか、今でも悔やむ。

なんとか道の尾駅にたどり着き列車に飛び乗った。二人の無事を心配していた両親は喜んでくれたが、浜口町の工場で働いていた叔父が帰ってくることはなかった。今でもあの悲惨な状況が頭から離れず、夢にうなされる。原爆の後遺症とともに犠牲者に対する罪悪感という二重の苦しみに悩んでいる。
<私の願い>
日本を背負う若い人に原爆の恐ろしさについて正確に知ってほしい。そのためにも生き残ったわたしたちには被爆の実態を伝える義務がある。多くの犠牲の上にある今の平和を大事にしてほしい。

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