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私の被爆ノート

まさに生き地獄の光景

2002年1月24日 掲載
石田美智子(76) 爆心地から約1.8キロの長崎市住吉町で被爆 =南高南有馬町乙=

当時十九歳の私は、三菱兵器製作所大橋工場に勤めていた。一九四五年八月九日。空襲警報が出されたため住吉町の横穴トンネルに同僚と避難した。警報解除のサイレンが鳴りトンネルを出ようとしたとき、ピカーと目もくらむせん光と耳をつんざく音に驚いて、その場に身を伏せた。

そのままどれくらいの時間がたっただろうか。意識を失っていたのかもしれない。やっとの思いでその場から立ち上がり、同僚とともにトンネルを出た途端、辺り一面火の海だった。もうもうと煙が上がり、建物は倒壊し鉄骨がぐにゃぐにゃに曲がっていた。

トンネル近くの女子寮に住んでいたが、寮も燃えているのが見えた。「帰る家がない」と思うと涙が止めどなく流れた。同僚と私は、驚きのあまり魂の抜け殻のような状態となって、防空ごうを目指してただ黙々と歩いた。

歩きながら目にした光景は地獄絵だった。全身やけどで皮膚がはがれ血まみれになった人、真っ黒く焼け木炭のようになってしまった人。浦上川沿いでは多くの人々が「助けて。水をくれ、水を…」と泣き叫びながら、折り重なるように亡くなっていった。生き地獄とはまさにこの光景だと思った。

防空ごうにたどり着いて一夜を過ごし、翌朝、同僚と別れて特別列車で母の実家がある南高口之津町に帰り着いた。貨物列車の中では、長崎市内で働いていた母の安否が気掛かりでならなかった。惨状を目にしていただけに「母は生きていないかもしれない」と思っていた。八月十一日、髪を振り乱しはだしとなった哀れな姿で母が実家にたどり着いた。私は声も出せず、土間に飛び降りて母に抱き付いた。

特攻隊を志願して東京に出ていた弟も数日して実家に帰り、親子三人で涙の対面をした。旧満州で病死した父が見守ってくれたおかげだと感謝した。それから無一文の生活が始まったが、知人や親類の方々の温かいご支援を受けて、何とか生活することができた。
<私の願い>
生き地獄をさまよった者としては、核兵器は絶対許せない。戦争は絶対反対。現在、アフガニスタンの子どもたちの状況を知らされると、戦争のほかに手段はなかったのだろうかと考える。

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