「あの一瞬で、私の人生はすべて変わってしまった」。被爆した時の状況は思い出したくないのが正直な気持ち。
当時二十五歳。西彼高島町出身。地元の高等小学校を卒業後、弟の仕事の関係で長崎市に引っ越した。戦況の悪化で当時住んでいた町全体が強制疎開となり、平戸小屋町へ移っていた。
母を十六歳の時に亡くし、姉三人は既に嫁いでいたため、私が父と弟二人の世話をしなくてはならなかった。すぐ下の弟は徴兵され、残った父と弟、私の三人で暮らしていた。
一九四五年八月九日午前。父と弟は立神の三菱造船所に働きに出掛け、私一人が平戸小屋の自宅で家事をしていた。「ピカ」と光が目に入った。
「これはいけない」。近くの防空ごうに向かって、無我夢中で走った。想像を絶する強い風と熱が背中に迫る中、何が何だか分からないうちに、防空ごうに駆け込んだ。中にいた近所の人たちを見て、われに返った。
私を捜して自宅に戻った父は大きなけがもしていない私の姿を見て「よく生きていた」と喜んだ。しかし、爆風に押し倒された自宅のはりは、三つに割れていた。
家を失い、身を寄せる所がなかった。父たちもそれぞれが生きるのに精いっぱいで、私は行き場を失った。
当時、高島炭鉱に徴用されていて帰郷する人の同伴者という証明があれば、列車に乗ることができた。四五年九月七日、北海道へ帰るある夫婦の同伴者にしてもらい、駅舎も焼き尽くされた長崎駅を出発。その夫婦の厚意で、北海道に行くことになった。
船着き場だった大波止辺りまで一面の焼け野原。道は行方不明になった家族を捜す人たちであふれていた。がれきの町に、当時の長崎大医学部のコンクリート壁がわずかに残っていたのを鮮明に覚えている。
それから二十五年ほど北海道で暮らした。七〇年に長崎に戻ると、あの日、焼け野原だった光景とは全く違う美しい町に変わり、「浦島太郎」みたいな気分だった。
戦争のことは思い出したくないが、どんなに年月が過ぎても胸の奥底からいつのまにかわき起こってくる。「戦争は起こしてはいけない」と。
<私の願い>
原爆は言うまでもなく、戦争は絶対反対。争い合って何になる。苦しい思いを今の子どもたちにはさせたくない。自衛隊の海外派遣だって、いつどうなるか分からない。だから、やめてほしい。