山村 繁雄
山村 繁雄(73)
爆心地から3キロの自宅で被爆 =長崎市坂本1丁目=

私の被爆ノート

布団ごと飛ばされた

2002年1月10日 掲載
山村 繁雄
山村 繁雄(73) 爆心地から3キロの自宅で被爆 =長崎市坂本1丁目=

原爆が落とされた当時、長崎市丸尾町にあった三菱電機の工場で養成工として働き、飛行機の部品などを作っていた。八月八日は徹夜勤務だった。九日朝に仕事を終え、水の浦町の自宅に帰った。

寝ていると、突然ものすごい風が吹き、布団ごと体を飛ばされた。光は見えず、爆音には気付かなかった。外に出ると、自宅を含め周囲の家は爆風で屋根がずれていた。わら屋根の家は燃えた。

近くの防空ごうに行くと、避難してきた人たちは皆怖がっていた。浦上方面を見ると、入道雲のような雲が立ち上っていた。家族の安否をいろんな人に尋ねて回った。結局、両親と兄弟は無事だった。いつだったか覚えていないが、新型爆弾が落とされたという話を聞いた。

しばらくは亡くなった人を火葬したり、水を求める人に与えたりする作業をした。

終戦を迎え、米国人が上陸してくるといううわさがあったので、母親の実家がある西彼外海町黒崎に避難することにした。稲佐橋から浦上方面にかけて家がなくなっていた。木の電柱が燃えて、たばこのように煙が出ていた。家々は吹き飛ばされ、かまどとふろ、水道管だけが残る無残な光景も見られた。電車は焼けて骨組みだけになっていた。人を焼いたにおいがきつかった。黒崎までの海岸沿いの道では、ぼろぼろのシャツ一枚で元気なく歩く人がいた。

黒崎で二、三日過ごした後長崎に戻り、被害を受けた会社の同僚の家を回って片付けなどを手伝った。会社からの指令で、長崎に来た米軍の荷物運びなどの仕事もした。

あの惨状は言葉ではなかなか言い表せない。この世の終わりかと思った。今思えば、ぞっとする光景だった。亡くなった家族を自分で火葬した人も多く、大変な悲しみだっただろう。
<私の願い>
二度と戦争をしてはならない。過去の戦争の犠牲があってこそ、今の平和があるのかもしれない。だからこそ、これからも平和を守り続けなくてはならない。

ページ上部へ