山川サミエ
山川サミエ(73)
被爆者の救護活動で被爆 =長崎市川平町=

私の被爆ノート

人の死を初めて直視

2001年12月27日 掲載
山川サミエ
山川サミエ(73) 被爆者の救護活動で被爆 =長崎市川平町=

当時十七歳。諫早市にあった諫早国民学校に勤めていた。あの日、学校は夏休みだったが、いつも通りに出勤した。暑い日だった。

職員室で女性教諭数人と話をしていたとき、「ピカーッ」と空全体が光り、「ドーン」というものすごい音がした。「爆弾が落ちた」と直感し、とっさに机の下に潜り込んだ。数分後、机の下から出て長崎方面を見ると、空が紫色になっていた。太陽は真っ赤で燃えているようだった。

昼ごろ外出した際、学校近くの警察署を通りかかると、警察官たちが「長崎に新型爆弾が落とされた」と言いながら右往左往していた。その時はまだ、原子爆弾で長崎の街が大被害を受けているとは思いもしなかった。

夕方になると、長崎から多数の負傷者がトラックで次々に学校に運び込まれた。負傷者は、いずれも全身が焼けただれ、皮膚がはがれて垂れ下がっていた。講堂は負傷者であふれ、足の踏み場もないほどだった。

「水をくれー」と、うめき声を上げる負傷者に水を飲ませるのが仕事になった。小さな湯飲みだったので水はすぐになくなった。水をくんで戻ると、ついさっき水を飲ませた人が死んでいた。人の死を直視するのは初めてだったので、ショックだった。

講堂内のベンチに座り、赤ちゃんを足元で遊ばせている父親がいた。しばらく見ていると、父親の息が急に荒くなり、そのまま息を引き取った。その後、あの赤ちゃんはどうなったのか今でも心残りだ。

二、三日すると、負傷者の傷口にうじがわき、講堂内には何とも言えないにおいが漂った。死んだ人はリヤカーに乗せて近くの山に運んだ。深い溝を掘って、青竹を敷き、油をかけて火葬したと聞いた。まさに生き地獄だった。

十五日、自治会長から大事な放送があるので、集まるように言われ、会長宅に行った。ラジオから玉音放送が流れていたが、意味は分からなかった。近くにいた人に「戦争は終わった」と教えられ、これでもう悲しい思いはしないでいいと思った。
<私の願い>
二度とあのような惨状を繰り返してはならない。戦後、一教員として子どもたちに体験を話してきた。今もなお、米中枢同時テロによる世界的緊張が続く。平和の尊さを語り継いでいく必要がある。

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