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私の被爆ノート

救援活動で惨状に直面

2001年12月19日 掲載
毎熊 茂(77) 被爆者の救護活動で被爆 =諫早市永昌町=

当時、私は二十一歳。あの日、諫早市本明町の自宅近くの田んぼで草取りをしていた。突然、ピカッと光り、風で田んぼの苗がフワーッとないだ。長崎市方面からもくもくと黒い雲が上がって薄暗くなり、「なんじゃろか」と眺めていた。その後、「警防団は諫早駅に集まれ」と招集がかかった。当時、市警防団の本明分団に所属していた。分団員はおよそ二十人。午後四時か五時ごろ駅に駆け付けた。

駅に着くまで、けが人が運ばれて来るということを知らなかった。一時間ばかり待っていたら最初は三両編成で救護の列車が来た。列車の中には焼けただれ、水ぶくれした人が大勢いた。「水をくれ」と言って苦しんでいる。着物はぼろぼろで、けががひどく、手が付けられない状態。駅でそのまま亡くなっていく人も多かった。

けが人から「水を、水を」とせがまれたが、「飲ませてはいけない」という上司の命令だった。けが人を大八車やリヤカー、戸板などで近くの海軍病院や学校などに運んだ。収容された人たちは、自由に手も動かない。ハエが止まっても手で追い払うこともなかった。ただ苦しみながら横たわっているばかりだった。

翌日からは遺体の処理作業が始まった。市内の火葬場に配置され、三つか四つ穴を掘った。穴掘りに一日かかり、次の日から遺体を焼却した。遺体の上にわらをかぶせ、油をかけて焼いた。身元が分からない人が多かった。

遺体は腐乱したような状態が多く、動かそうとして腕を握るとベロッと皮膚がはげる。目、口、耳、鼻と、穴という穴から大きなウジがうようよわき出ていた。作業していた当時は、食事ものどを通らないような状態だった。救護や遺体の処理で都合五日間従事した。こんなことはいくら警防団でも二度としたくないと思った。

亡くなった方、特に身元さえ分からなかった方は、さぞ無念だったろうと思う。
<私の願い>
なぜ、あんなむごい殺し方をしなければならなかったのか。許されないことだ。私自身も救護活動で二次被爆し、結婚して子どもが生まれるたびに影響が出るのではないかという不安に悩まされた。命ある限り犠牲者に祈りをささげ、一日も早い核廃絶を願う。

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