高射砲部隊に入隊して一年、当時、二十一歳だった。原爆が投下された日は金比羅山にあった高射砲の陣地で、上等兵の指揮で訓練をしていた。高射砲は五門あり、一門ごとに十五人くらいが付いていた。私は一番砲手で、砲身わきの照準器の眼鏡で上空の敵機の目標を確かめながら高射砲の向きを合わせるのが役目だった。
午前十一時すぎ、訓練中に照準器で上空を見ていたとき、B29爆撃機一機が雲間から見えてきた。その瞬間、ピカッと稲妻が走り、強烈な雷鳴が響き渡った。間もなく押し寄せた爆風がそばにいた私たち隊員らを跳ね飛ばした。
近くにいた上等兵の一人は顔面の皮がはがれて真っ赤、目と歯だけが白くせい惨な姿だった。私は爆風で巻き上がった大量の土砂をかぶったものの、奇跡的に外傷はなかった。体が砲身の陰となり、熱線が遮られたわけだ。
陣地から浦上地区を眺めると、炎が波打ち、一帯が「火の海」になっていた。対空双眼鏡で街中をのぞくと、火だるまになった牛や馬が跳ね上がっている様子が見えた。実に恐ろしい光景だった。
負傷した隊員たちは金比羅山を下り、市内の防空ごうなどに搬送された。亡くなった人は数日たった夜、爆風で壊れた兵舎の木材を使って火葬、生き残った私たちが遺族に連絡を取って、遺骨を納めた。
終戦近くなって、陣地付近で負傷者の搬送に追われていたとき、雲の間から再び敵機が現れた。米側はもはや日本に抵抗する余力はないとみたのだろう。市内を低空で悠々と飛び、ビラをまいた。降伏を勧告するビラだった。
私はけがはなかったものの、まゆ毛が抜けたり、下痢するなど放射能の後遺症が出た。そのころ「長崎は七十五年間草木も生えない」などと風評が立った。私自身は軍医から「五島に帰っても五年も生きられないかもしれない」と言われ、戦後しばらくは死を覚悟しながら生活した。
今でも目に焼き付いている原爆の「火の海」の光景。思い出したくない出来事だが、原爆の悲惨さを後生に語り継ぐために決して忘れてはならない。
<私の願い>
核廃絶に向けた私たち被爆者の懸命な訴えに、政府は同調の姿勢を見せているが、米国との外交や防衛協力の立場からか、必ずしも積極的ではなく、歯がゆい思いだ。核廃絶の強い決意を示してほしい。