中村 由一
中村 由一(59)
爆心地から1.2キロで被爆 =長崎市上銭座町=

私の被爆ノート

差別への怒りでいっぱい

2001年12月6日 掲載
中村 由一
中村 由一(59) 爆心地から1.2キロで被爆 =長崎市上銭座町=

私は当時二歳で、被差別部落に住んでいた。あの日、母は茂木の父の実家にリヤカーを引いて食料の調達に行き、私は生後九カ月の弟と自宅で留守番をしていた。

弟が寝ているのに大声で歌っていた私を、近所のおじさんがとがめに来た。おじさんが玄関を開けた途端、せん光が走り、家は一瞬で押しつぶされた。私は玄関のそばでがれきの下敷きになった。

弟が泣き叫ぶ声を聞き付けた近所の人たちが、がれきに埋まった私を見つけ、助け出してくれた。家は焼け落ち、私は近所の人に連れられ防空壕(ごう)に逃げ込んだ。弟は夕方に遺体で発見され、私もひん死の状態が続いた。壕に戻った母はあきらめていたが、私は午後十時ごろになって息を吹き返したという。

だが、私の頭の骨は割れていた。母は翌日、市内の病院を回ってくれたが、原爆の傷を嫌ったらしく受診できなかった。傷口は縫い合わせられず傷あとがくっきりと残った。小学校で被爆した兄は翌月亡くなった。

私たち一家はその後、市内の別地区に移り住んだ。小学校に上がると、頭の傷を見た担任教師が私に「カッパ」とあだ名を付けた。出席を取るときも「カッパ君」と呼ばれ悔しかった。ほかの児童が宿題を忘れたりすると「罰」として私の隣に座らせた。休み時間には、皆が代わる代わる傷を触りに来た。

髪の毛が生え、傷が目立たなくなるとあだ名は「ゲンバク」に変わった。卒業式の日にやっと「中村由一」と名前を呼ばれたが、私は返事をしなかった。私を苦しめ続けた原爆と差別への怒りでいっぱいだった。

中学卒業を前に、市内の企業の就職試験を受けたが、面接では本籍と父親の仕事を聞かれただけだった。結果はクラスで自分だけが落ちた。

被爆の惨状を体験していながら、「差別されることを恐れる人」がほかの被爆者を差別していた。核兵器の恐ろしさは言うまでもないが、私にとって一番怖かったのは差別する人間だった。

被爆から五十六年。地元の小学校で体験談を話すと、子どもたちはじっと聞き入ってくれる。「差別なき世界」はいつか実現できると信じている。
<私の願い>
「戦争は最大の差別」といわれる。反戦、反核に加えて「反差別」を忘れてはならない。一人ひとりが相手の立場になって考えることなしに、真の平和はあり得ないのではないか。

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