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私の被爆ノート

眼前の荒野信じ難く

2001年11月29日 掲載
田中 正行(83) 8月11日に道の尾駅付近から稲田町まで歩き入市被爆 =島原市長貫町=

厳寒のソ連、満州国境警備に三年五カ月従事。兵役を終え、島原半島の三会村(現島原市)に帰郷し、畑でムギ、ヒエ、アワ、イモ類などを作っていた。

当時二十七歳。あの日も畑の真ん中で農作業をしていた。突然、周囲がピカッと光り、「なんじゃろか」と西の空を見上げると、黒い雲が見る間に入道雲のように膨らみ、太陽を覆い隠した。そして、鈍い「ドーン」という大きな音が聞こえ、びっくりした。

「大型爆弾が長崎に落とされたらしか」「大勢の人が死んだげな」―。断片的な情報が村に伝わってきた。長崎市稲田町で銭湯などを営む家に嫁いだ妹の安否が気掛かりだった。心配する親と相談し、妹に会いに行くことを決め、十一日早朝、島原鉄道三会駅から一人で長崎市に向かった。

道の尾駅付近で下車し、徒歩で浦上方面に進むにつれ、がれきが広がった。馬があちこちで白目をむいて倒れていた。やがて見渡す限りの焼け野原。家屋も電柱もなく、妙に静まり返っていた。遺体やけが人はあまり見掛けなかったが、異臭が漂っていた。工場や会社が華やかに立ち並んでいたころの景色が脳裏に浮かび、目の前の荒野が信じられなかった。

「どういうことだ。人間にこんな仕業ができるのか」。ぼう然となり、無性に叫びたい気持ちになった。工場の鉄骨がグニャリと曲がっているのも見えた。辺りを見回しながら数時間歩き続け、稲田町にたどり着くと、妹の嫁ぎ先の家屋はかわらが落ち、銭湯の壁も倒れていた。妹やその家族の元気な姿が見えたときは、不安感が吹き飛び、心から喜び合った。妹はつらい体験をしたと思う。

一週間ほど泊まり、大工や左官の手伝いをして村に帰った。今では終戦を迎えたときの状況は忘れてしまったが、あの荒涼とした浦上の景色だけは時折思い出す。
<私の願い>
今、米国がアフガニスタンと戦争し、日本も応援しているが、早くやめてほしいと思う。私は重機関銃に実弾をこめて国境警備を経験したが、戦争は二度といやだ。とにかく平和を願う。

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