当時十二歳。淵高等科(現在の長崎市立淵中学校)の一年生だった。毎朝午前七時四十分に自宅を出て近くの山に集まり、友人と連れだって学校へ行くのが日課だった。原爆が長崎に投下された日も同じように、山へ向かった。
山へ行くと、警戒警報が聞こえた。警報に従い自宅へ帰り、しばらく家の手伝いをしていた。
「家に入らんか」。突然母が叫んだ。「ピカッ」。雷が辺り一面に光っているような感覚。私はあっという間に爆風で飛ばされ、台所の柱にしがみついた。どこにぶつかったのか分からないが、額の右側に湯のみ茶わんぐらいの大きさのこぶができていた。
家の中を見回すと、倒木に足を挟まれた母の姿が真っ先に目に飛び込んできた。三歳の弟をしっかりと胸に抱いたままだった。母をはじめ、祖母、父、妹、弟の家族全員の無事が分かった。屋根は約五十メートル先まで吹き飛び、柱だけが残っていた格好だった。
原爆投下から数日間、長崎は燃え続けた。昼は煙で真っ黒、夜は空が赤く染まっていた。
私の家族は全員、家の裏にあった防空ごうに避難。近くの二世帯と一緒に十数日間、寝食を共にした。畑に植えていたサツマイモとカボチャが主食だった。
終戦を迎えた八月十五日。軍人を家族と浦上駅まで出迎えに行ったとき、至る所で赤ちゃんの泣き声が聞こえたり、死体がごろごろ転がっているのが見えた。「ジュー」。死体を踏むと、奇妙な音がした。感覚は完全にまひしていた。
原爆のことを思わないようにしていても、数年間は恐ろしい光景が夢に出てきた。眠れないこともたびたびあった。
八月二十三日には、母親の実家、上五島に家族で移り住んだ。九月中旬ごろ、突然下痢が始まった。漢方薬を飲み続け、約一カ月後にようやく治まった。
一九五五年から十五年間、巻き網漁船に乗った。原爆のせいだろうか、疲れやすく、年に数カ月は休んでいた。
<私の願い>
原爆のせいで消息が分からなくなった多くの友人がいる。生きているのならば、連絡を取りたい。この世から核をなくしてほしい。世界中の人々が平和で平等な世の中になってほしい。