後田吾一郎
後田吾一郎(70)
爆心地から約3.2キロの伊良林1丁目の自宅近くで被爆 =長崎市中小島2丁目=

私の被爆ノート

忘れられぬ水飲む姿

2001年11月8日 掲載
後田吾一郎
後田吾一郎(70) 爆心地から約3.2キロの伊良林1丁目の自宅近くで被爆 =長崎市中小島2丁目=

現在の活水高校の場所(爆心地の西南約〇・五キロ)にあった鎮西学院中学校の二年生だった。学徒動員で長崎駅機関区に配属され、数人の学友と石炭を荷揚げする作業に従事していた。

原爆が投下された日は登校日だったが、行きたくなかったので仮病を使いズル休みした。登校した多くが爆死し、機関区で作業をしていた者も熱風を浴びて亡くなるか大やけどを負った。

自宅で母が私の体を心配し作ってくれた芋がゆを食べたあと、警戒警報解除の知らせを聞き、外へ飛び出した。

ランニングシャツ一枚で寺町通りの曲がり角に出たとき、ピカリとせん光が走った。その瞬間、左肩からひじにかけて痛みを覚えた。やけどをしていた。

すぐそばに焼夷(しょうい)弾が落ちたかと思った。しかし、目の前の家からは火も煙も上がらない。おかしいと思い西の空を見ると、金比羅山の上に妙な雲。それがきのこ雲だった。

平安時代の女性がかぶる笠(かさ)のような形で、雲の上は少し盛り上がり、すそ野の周りでは黒煙が上がっていた。しばらくすると、火の粉が降り注いできた。

日が西に傾くころ、家の近くで顔や背中などにやけどを負った人たちと擦れ違った。ある人は衣類も髪もボロボロで、最初は性別が分からなかったが、目の前に来て乳房を見てやっと女性だと分かった。

その女性の背中を見たときは思わず目を背けてしまった。皮膚が波を打つように盛り上がり、変形していた。「水が欲しい」と言うので、コップで水を渡した。うまそうに飲む姿は今も忘れられない。

昼ごろに県庁で発生した火事は、わが家にも飛び火する勢いだった。両親と妹二人を近くの防空壕(ごう)に避難させ、十歳年上の兄と家に残ったが、火が近づき、風頭山まで避難した。

幸いにも火の勢いは弱くなった。山を下りたのは十日の午前三時ごろ。家に帰り、寝床に就いたが、眠れなかった。兄はそんな私を見て配給の酒をコップ半分飲ませてくれた。生まれて初めて飲んだ酒はおいしかった。その後は熟睡した。長い長い一日だった。
<私の願い>
核兵器の開発にしのぎを削る国に対し、私たち被爆者と次の世代の人たちが力を合わせて核兵器の悲惨さを世界に訴え、核廃絶を実現させたい。

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