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私の被爆ノート

大破した木造校舎

2001年11月2日 掲載
白木千代子(74) 爆心地から2.5キロの長崎市平戸小屋町で被爆 =長崎市弥生町=

当時十八歳で、代用教員として朝日国民学校に勤めていた。空襲に備え、逃げ方や身の守り方を子どもたちに教えていた。

八月一日ごろ、学校とその周辺に五発の爆弾が落とされた。私たちが逃げ込んだ防空ごう近くにも一発落ちたが、不発弾で命拾いした。校舎が燃えかかったが、地域住民の消火活動で全焼は免れた。

九日は蒸し暑い日だった。朝から教師全員で空襲の後片付けをしていた。作業の途中、校舎の陰で休憩していると、若い女性教師が「飛行機の音がする」と言った。私には聞こえなかったが、爆弾が落とされたばかりだったので、急いで校舎の中に逃げ込んだ。

その瞬間、雷が落ちたような音がしたと思うと、ものすごい揺れに襲われた。その後の記憶はない。気が付くと、校舎の入り口に倒れていた。もやがかかり、真っ暗で何も見えず、仲間を呼ぶと、そばから「ここよー」と女性教師の声がした。恐怖のため二人で抱き合い震えていた。

しばらくして、私たちは運動場にはい出た。周囲のもやが薄れ、明るくなるとほかの教師たちが集まってきた。どの教師も体にガラス片が刺さり、顔や体にひどいやけどを負うなど重傷だった。

私たちは校長と教頭がいないことに気付き、二人が作業をしていた木造校舎に向かった。校舎は大破していて「もうだめか」と思った。必死に二人の名前を呼ぶと、がれきの下から「ここにおるぞー」と声がした。がれきをどけ、血だらけの二人を助け出した。

全員で避難するため、天皇陛下の御真影を持ち、港を目指した。稲佐の桟橋に着くと海面で船が転覆し、近くの川には子どもたちの無数の遺体が浮いていた。あまりにも悲惨な光景に声も出なかった。

私たちはその場で解散し、家路を急いだ。西古川町の家に着くと父の姿があり、ホッとした。母は風頭山に避難し無事だった。

その後、現在の西彼外海町の親せき宅で約二週間過ごした。九月一日に登校すると、校舎は教師たちの手で再建されていた。「自分だけ逃げ出してしまい、申し訳ないことをした」と思った。
<私の願い>
戦前、戦争を肯定する教育をしてきた。私たちの手で再び子どもたちを戦地に送り出してはならない。歴史の事実を子どもたちに語り継いでいく必要がある。

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