一九四二年から稲佐国民学校で教師をし、爆弾が落とされたときに備えて耳と目を押さえる訓練などを毎日していた。
四五年四月からは、山里国民学校に配属される予定だったが、三月のレントゲン検査で異常が見つかり、諫早(現在の諫早公園付近)にあった教員の保養所に入った。
原爆が投下された八月九日は、長崎医科大の医師が診察に来ていた。廊下で診察を待っていると、ピカーと閃光(せんこう)が走り、窓ガラスががたがた揺れた。
夕方になり、長崎に新型爆弾が落ちたと聞いた。長崎に行こうと思ったが、保養所の先生に引き留められ、二日後の十一日に保養所の所長らと三人で長崎に向かった。
北部の道ノ尾駅で汽車を降り、本原一丁目にあった実家に着くと、家は吹き飛ばされ、がらくたの山だった。家族は近くの防空ごうにいた。母親は家の下敷きになったが、助け出されたという。妹とおばは高熱で、ごうの中に横たわっていた。
数日は遺体を焼いたり、土に埋める作業をした。十三日ごろに浦上駅から諫早方面に向かう汽車が出るという話を聞き、妹を連れてすし詰め状態の汽車に乗り、保養所に行った。
保養所には被爆した学生たちが収容されていて、看護に走り回った。顔や手にガラスが刺さった人や、ひどいやけどを負った人がいた。高熱が続いていた妹は歯が抜け始め、くしで髪をすいてあげると、ほとんどが抜けた。数日後に亡くなった。
長崎に帰った後、地元の警防団長をしていた父の遺骨が戻ってきた。山里国民学校にいて、被爆したらしい。その後母親の容体も悪くなり、体に紫色の斑点(はんてん)が出ていた。「死んでいく者はいいが、後に残る者のことが心配だ」と言って、息を引き取った。炎が母の遺体を包む光景を見て涙があふれ、遺骨を抱いて三日三晩泣き続けた。あの炎は今も忘れられない。
<私の願い>
戦争は絶対にしてはならない。テロもいけないが、今起きている戦争で核兵器が使用されないとは限らず心配。核兵器の犠牲者は、私たちが最後であってほしい。