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私の被爆ノート

「だれも おらんとよ」と兄

2001年10月18日 掲載
渡邊すが子(67) 原爆投下の翌日、入市被爆 =長崎市滑石3丁目=

一九四五年三月、当時住んでいた神戸市が大規模な空襲に遭い、同年四月末、長崎市駒場町(現松山町)の親せき宅に家族六人で疎開して来た。父親は仕事のため神戸に残った。

城山国民学校に転入しようとしたが、郊外の学校を勧められ、私だけ母親の実家(当時の西彼三重村)に移り、三重国民学校の六年生に転入した。十一歳だった。母の実家には一年前から二番目の姉が疎開し、同校に勤めていた。

農繁期(六―七月)は授業のない日が多く、夏休みのない八月は授業が行われていた。

八月九日、朝からの空襲で、学校は休みになった。縁側でお手玉をしていると、急に周囲があかね色に変わった。気味が悪くなり、祖父母のいる茶の間に走った。

部屋に走り込むのと同時に、「パーン」と音がし、障子が一斉に倒れた。「爆弾が落ちたぞ」と祖父が言い、祖母が布団を私にかぶせた。しばらくして庭から長崎方面を眺めると、真っ黒い煙が広がるのが見えた。

翌日、伯父と二番目の姉と歩いて母親たちのいる駒場町に向かった。道の尾に来た時、絶句した。大橋方面の斜面にあった家々がなくなり、稲佐山の緑も消えていた。街はがれきの山だった。

私たちは先を急いだ。大橋に着くと、周囲には数え切れない無残な光景が広がっていた。黒焦げで腹部がはれ上がった人、あお向けで硬直したままの馬…。

駒場町に着いた時、あぜんとした。あったはずの家が跡形もなく消え去っていたからだ。辺りはまだ熱気が立ち込めていた。私たちは手付かずのまま、駒場町自治会の防空ごう(油木町)を訪ねた。すると、一番上の姉と兄、いとこの三人がいた。「だれもおらんとよ」と兄が言った。涙が出た。

十一日、姉たちに帰るよう言われ、私は一人で三重村に歩いて帰った。姉たちは母親や妹、親せきと思われる遺体をだびに付し、遺骨を箱に入れて持ち帰って来た。祖母は箱を抱いて泣いた。十五日、玉音放送を聞き、「戦争に負けた」と思った。今でも夏になると、当時を思い出して涙が出る。
<私の願い>
戦争を経験した者として、その恐ろしさを若い世代に伝えていかなければならない。平和は願うのではなく、自分たちの手でつくり上げるのだと認識してもらう必要がある。

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