五十六年たった今も、目を閉じるとあの悲惨な光景が浮かぶ―。私にとってあの日の体験は、それほど強烈だった。
当時二十歳だった私は、機関士見習として国鉄早岐機関区で機関車の運転や機関車が故障した際の応急処置訓練などを受けていた。
あの日は朝から燃料調査で機関区内を仲間と巡回していた。午前十時半をすぎたころだったろうか、警戒警報が出され、私は仲間と交代で敵機の侵入を監視し、大村方面にピカッとせん光が走ったのを見た。
警戒警報が解除され、しばらくして鉄道連絡で「長崎方面に新型爆弾が投下され、全滅らしい」と一報があった。すぐに集合がかかり、機関士見習十人と機関助手見習十五人に翌朝から長崎機関区への救援出張が告げられた。
午後は機関車の石炭積み込みなどをしていた。夕方になり、早岐駅に被災者を乗せた列車が到着したが、既に死んでいる人や衣服がぼろぼろに焼け、息絶え絶えの人たちばかりでショックを受けた。
十日早朝、列車で長崎機関区を目指したが、線路がやられ、道の尾駅までしか行けなかった。到着直後、駅周辺で敵の小型機の襲撃を受けたが、何とか難を逃れた。
徒歩で長崎機関区に向かったが、道中目にするものは悲惨な光景ばかりだった。骨組みだけになった路面電車とつり革を握ったまま死んでいる人、茶色く燃え尽きた山、川面に浮かぶ体が膨れ上がった死体、黒焦げで横たわる牛や馬、ヤギ。「水を下さい」と助けを求めた人もいたが「鉄道復旧の任務を命じられています。先を急ぐので」と話し、その場を去った。
正午すぎ、機関区にようやくたどり着き、長崎―道の尾駅間の線路の復旧に当たった。夕方までになんとか列車が通れるようになり、その日から終戦の翌日まで、長与駅の客車の中で寝泊まりしながら作業をした。
その年の暮れ、広島、長崎に落とされた新型爆弾が原子爆弾と知った。
<私の願い>
世界中から核が無くなれば、核の危険や戦争の脅威にさらされることはない。核を持つ国と国とが威嚇し合うのは不毛な争いを生むだけ。米中枢同時テロ事件が新たな悲劇につながらないよう願う。