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私の被爆ノート

梁に挟まれた母 救出

2001年9月27日 掲載
西村 勇夫(68) 爆心地から1.4キロの本原2丁目(現辻町)の自宅で被爆 =長崎市辻町=

当時十二歳。山里国民学校(現山里小学校)の六年生だった。

八月九日の午前十一時前、浦上教会から家に帰ると、配給の酒を取りに行くよう母に頼まれ、いったん玄関を出た。だが、空腹だった私は、兵器工場などで働く四人の姉が炊事場のかまにご飯を残していた事を思い出し、家に戻った。

かまにしゃもじを入れた途端、「ブアー」と異常な爆音が耳を突き、稲妻が十本ぐらい束になった光に襲われた。あっという間に壁の下敷きになり、気を失った。

どのくらいたっただろうか。母が「勇夫、勇夫」と呼ぶ声が聞こえた。梁(はり)に挟まれ「うちにだけ爆弾が落ちた」と泣き叫んでいる。私の左腕には竹が突き刺さっていたが、壁からはい出て、母をひきずり出した。無事だった弟と三人で約百メートル先の防空壕(ごう)へ向かった。

道すがら、「勇夫さん、水ば飲みたか」とうめく女性の声がした。いつも私をかわいがってくれた近所のおばさんだった。皮膚が赤黒くただれて顔は膨れ上がり、別人のよう。水をくんでこようと夢中で小川に走ると、水を求めて腹ばいになり、息絶えている人が何人もいた。ブリキくずに入れた水をおばさんに飲ませると、おばさんは「ありがとう」と言って横たわり、夕方亡くなった。

防空壕の中では、下級生たちがうわ言のように「水を」と繰り返し、私の名前を呼ぶ。警防団の人が「(水を)やっちゃいかん」としっ責した。仕方なくあきらめたが、水を飲んだ人も飲まなかった人も、翌朝までには皆死んでしまった。

三日後、大橋の兵器工場で働いていた姉二人が、つえを突いて防空壕に来た。だが、長崎医科大学(現長崎大医学部)の病院と学徒動員で働いていた姉二人はとうとう戻って来なかった。母は五十四年後に亡くなるまで、二人の姉の消息を尋ね回った。

戦後、長崎の街は発展を遂げたが、肉親や多くの友を失った無念は消えない。被爆者への偏見や差別にも苦しんだ。一部の指導者が始めた戦争の犠牲はあまりにも大きい。核の恐怖や戦争の愚かさを語り継いでいかねば、と思っている。
<私の願い>
山里国民学校では児童約千三百人が犠牲になった。山里小学校を訪れる修学旅行生らに毎年、被爆体験を話している。戦争は人間の所業だが、人同士で助け合っていけば、平和な世界が築けるはずだ。

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