学徒報国隊として一九四四年一月から、現在の長崎市築町付近にあった長崎貯金局に勤めていた。
原爆が投下された午前十一時二分には、机に向かい、そろばんで仕事をしていた。ものすごい音がしたので机の下に入った。窓際にいた人は割れたガラスの破片でけがをしたが、私は全然傷も受けず、荷物を持ってすぐに外に飛び出し、実家のある上野町に向かった。
立山から金比羅山を越えて高尾町を通り、家に戻ったのは午後二時ごろだったと思う。途中、道端や溝の中で何人もが「水を」「助けて」と叫んでいたが、家にいた母たちの安否を早く知りたかったので、一目散に家に帰った。
一帯は焼け野原で、残っているのは灰だけ。防空ごうの中で「母ちゃん」と叫んでも、返事する声はなかった。近所の人が私を見て泣き崩れた。母は二番目の妹を連れて近所の家に回覧板を持って行ったときに原爆に遭い、建物の下敷きになった。そのうちに火事になってしまい、二人とも助けることができなかったという。
親せきと一緒に山の方に行くと、ミカンの木の下に、全身をやけどした弟が横たわっていた。その晩は父と弟と三人で過ごした。弟には畑から取ってきたキュウリを食べさせ、できるだけの介抱をしたが、翌朝息を引き取った。
その後数日、防空ごうの中で過ごした。毎日遺体を集め、薪を拾って積み重ねて遺体を焼いたりしていた。十四日の夕方になり、キリスト教の祝日に当たる十五日に、母親たちを放置したままにしてはおれないと、母と妹の骨と思われるものを父と一緒に拾い、墓地に埋葬した。十六日に、傷つき帰ってきたすぐ下の妹も十九日に亡くなった。
原爆で子供を失ったことに対し、父は「大人になって悪いことに染まってしまう前に、神様が天国に呼んでくださったのだろう」と言って、あきらめをつけようとしていた。そんな姿が痛々しかった。
<私の願い>
原爆の使用をもう二度と繰り返さないでほしい。世界の国々と手を取り合い、平和な世界を実現しなければならない。