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私の被爆ノート

道に無数の黒焦げ遺体

2001年9月13日 掲載
山口 麗子(71) 爆心地から約1.1キロの大橋町で被爆 =長崎市泉2丁目=

県立高等女学校の三年生で、報国隊員として大橋町の三菱兵器製作所鋼板工場に竹の久保町の自宅から通っていた。当時十四歳。

八月九日も友人と二人で、浦上川沿いを歩いて出勤した。いつものように作業場で工員の手伝いをしていたとき、警戒警報が鳴り、友人や工員たちと近くの山に逃げた。一週間ほど前に自宅近くに爆弾が落ちたことを思い出し、怖かった。

十五分ほどで警報が鳴りやみ工場に戻った。作業を再開して間もなく、ピカッとオレンジ色の光が走り、黒い煙がものすごい勢いで工場内に吹き込んできた。窓ガラスが割れ、破片が飛び散った。

気付いたときはうつぶせで倒れていた。近くの土手を逃げる人たちの姿が見えた。私も起き上がって後に続いた。後ろから来た男性に「けがして血が流れているよ」と言われ、見ると、白いブラウスの背中と左腕が破れていた。逃げるのに必死で痛みは感じなかった。

夕方になり、家に帰ろうと山を下りた。工場の裏門付近で、軍服を着た男性が傷の手当てをしてくれた。自宅の母親が心配で家路を急いだ。大橋町(当時)の商店街まで来ると、道はがれきの山となり、数えきれないほどの黒焦げの遺体が転がっていた。不思議と恐怖は感じなかった。普通の精神状態ではなかったのだと思う。

江里町(現在)付近で、消防団員に「ここから先は危険だ」と言われ、近くの防空ごうに避難した。ごうの中ではやけどを負った人たちが「水をくれ」と言っていたが、与えられる水はなかった。朝起きると、近くの田んぼに口を付けたままの遺体がいくつもあった。

自宅に着くと、一帯は焼け野原で、母親の姿はなく、周辺のごうを捜し回ったが会うことはできなかった。十三日ごろ、木場の親せき宅へ行った。救護所で治療を受け、初めて首や腕にガラス片が刺さっていることが分かり治療を受けた。

次の日、親せきが竹の久保町の自宅跡で母の遺体を見つけ、遺骨をつぼに入れて届けてくれた。悲しくて涙が止まらなかった。十五日、玉音放送を親せき宅で聞き、「もう悲しい思いはしなくて済む」と思った。
<私の願い>
八月九日になると涙が出る。戦争は家族を亡くし、食糧もなく悲しい思いをするだけ。二度と同じ過ちを繰り返さないよう、若い世代に語り継ぐ必要がある。

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