当時十六歳。あの日はいつものように住吉町の女子寮を出て、勤務先の三菱兵器大橋工場内にある化学分析室に出勤した。薬品やガラス器具に囲まれた部屋の中で仕事をしていると、空襲警報が鳴った。
工場近くの避難所に駆け込んだものの、すぐに解除になった。再び工場に戻り仕事を再開したところ、雷のような光とものすごい音がした。気が付くと床に倒れていた。
「爆撃だ。ここにいては危ない」。同郷の牟田さんと二人で建物の二階から飛び降りた。頭や首からは血が流れ、持っていたハンカチは真っ赤になった。どうしていいか分からず、とにかく無我夢中で逃げた。
女子寮に立ち寄ったが、建物が壊れそうで中に入れない。寮の人の「道ノ尾駅へ行け」の指示で、着の身着のまま北を目指した。辺りは焼け野原。大けがをした人と何度も出会ったが、声を掛けることすらできなかった。今思うとかわいそうなことをしてしまったが、その時は歩くことだけで精いっぱいだった。
駅はけがをした人たちでいっぱい。上り列車に乗った時には既に暗くなっていた。翌朝、列車は佐賀県の有田駅に到着。あるおばあちゃんにおにぎりを二つもらい、牟田さんと分け合って食べた。戦後五十六年が過ぎた今、心からお礼を申し上げたい。
故郷の松浦に着いたのは昼すぎ。駅員さんは「大変だったね」と慰め、お金も切符も持っていなかった私たちを温かく迎えてくれた。
そして両親がいる自宅へ。父は小柄な私に「シゲ子は小さかけん、爆弾をくぐり抜けてきたね」と冗談を言って喜んだ。父は知人から「長崎は焼けてしまった」と聞き、何らかの便りがあったら、私の遺骨を受け取りに長崎に向かう覚悟でいたらしい。
同じ工場で夜勤だった同郷の子は、寮で寝ているときに被爆し亡くなった。当時、その子の父親から「元気に帰れてよかったね」と声を掛けられるたびに涙が出ていた。
<私の願い>
あの悲惨な光景を忘れたことはない。この世から戦争をなくし、世界中が平和でありますように。年老いて何もできないが、平和への願いを込めて、毎日つるを折り続けている。