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私の被爆ノート

死体山積み 懸命に供養

2001年8月30日 掲載
松野 隆子(79) 爆心地から3.3キロの鳴滝で被爆 =五島新魚目町浦桑郷=

秋田市に生まれ、一九四五年三月に結婚するまで秋田営林局でタイピストをしていた。同年五月、夫が長崎連隊区司令部に転属となり、長崎市鳴滝に引っ越した。その三カ月後、原爆が投下された。二十三歳だった。

まだ土地勘もなく、その日はいつもお世話になっていた大家さん方にいた。サイレンが鳴り、近くの防空ごうに避難した。警報が解除されて外に出たが、辺りに被害はなかったこともあり、原爆の悲劇は知らなかった。

夫は夕方、無事に家に戻った。「アメリカ兵が上陸するので若い女性は避難してください」と伝達があり、女学生たちと島原方面へ夜道を歩いたが、途中でデマと分かり引き返した。

翌日、長崎駅前の夫の伯父の家を訪ねると、伯父の家は跡形もなく、浦上方面は焼け野原だった。信じられない光景にがくぜんとしたのを覚えている。

自宅近くの伊良林国民学校の校庭には、運び込まれた死体が山積みにされていた。めい福を祈るよう、ろうそくと線香が配られ、「生き延びたわたしたちの役目」と思い、懸命に供養した。しかし、何とも言えぬ死臭が辺りに漂い、夜は恐ろしくて眠れなかった。

終戦後、夫から「残務整理に五カ月ぐらいかかる」と言われ、秋田の実家に帰ろうと思ったが、切符が買えず、夫の実家の五島新魚目町に行くことにした。五島に向かう漁船を見つけ乗り込んだが、途中、エンジン故障で船が動かなくなり、二日間、波に揺られた。三日目に救助に来た船に乗り移り島に着くと、夫の両親らが温かく迎えてくれた。

島の暮らしは戸惑いの連続だった。勤めの経験しかなく、畑仕事は初めて。芋の食事も口に合わなかった。しかし、義母がよく世話をしてくれ、次第に慣れていった。十二月に除隊となった夫が島に戻って来た。夫はその後、教職に就き、そのまま島で暮らすことに。だが、差別などを恐れて原爆に遭ったことは長く口外しなかった。
<私の願い>
広島の原爆では兄を失った。あのような悲劇をもたらす戦争は、もう二度と繰り返してはいけない。核兵器は今すぐ廃絶すべき。戦死された方々の尊い命が、現在の平和の礎になっている。戦没者のめい福を祈りたい。

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