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私の被爆ノート

受け持ち児童が犠牲

2001年8月23日 掲載
岩永 静枝(80) 爆心地から2.8キロ離れた新興善国民学校(興善町)で被爆 =長崎市片淵4丁目=

市の中心部にあった新興善国民学校で四年生を担任していた。戦況の悪化に伴い、郊外への疎開者が相次ぎ、受け持っていた学級の児童数は昭和二十年の夏休み前には半数にまで減っていたと記憶している。

学校は休みに入っていたが、あの日も朝から出勤し、休憩時間に教室でミシンをかけていた。糸の補充に職員室へ戻ると、ラジオから「大型機二機島原西進」のニュース。不安に駆り立てられながら再び職員室を出た直後だった。不意を突いてオレンジ色のせん光が走った。そばにあった頑丈なげた箱の陰に急いで身を潜めたが、その場で気を失ってしまった。

爆風で倒れたげた箱で頭を強打したのだろう。正気に返っても頭がもうろうとした。先ほどまでミシンをかけていた教室の窓は、爆風によって鉄枠がひどく曲がっていた。糸を取りに教室を離れなければ、命は助からなかったに違いない。

学校には特設救護病院が設けられていたため続々と負傷者が運ばれてきた。十五、六歳ぐらいだろうか。一人の男子生徒が校内の防空ごう入り口に立っていた。見ると顔全体がひどく火膨れしている。「おばさん、僕は助かるでしょうかね」。男の子が不安げに尋ねるので「大丈夫。良くなるから頑張ってね」と励ますしかなかった。

しばらくすると、火の手が学校に迫ってきた。同僚らと安全な場所を求めて市街地を逃げ惑うしかなかった。ようやく当時の自宅(片淵三丁目)にたどり着いたのは夜。私を見るなり家族が驚くので鏡をのぞくと、げた箱で強打した頭ははれ上がり、まるで「お岩さん」の形相だった。

負傷のため、教諭の仕事は間もなく辞めざるを得なかった。担任する学級の子供たちの安否は今もって分からないままだ。ただ、私が受け持っていた児童の中で、爆心地に近い城山に疎開した二人が原爆の犠牲になったことを後から聞いた。疎開しなければ助かったかもしれないと思うと、今もやるせない。
<私の願い>
原爆の犠牲となり無念の思いで死んでいった人たちのことを考えてほしい。最近は他人や自分の命を粗末にする事件が相次いでいる。なぜ、人の命を軽々しく扱うのか。思いやりの心を持ち、命は大切にしてほしい。

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