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私の被爆ノート

身内捜す悲痛な叫び声

2001年8月16日 掲載
橋口 英市(70) 爆心地から1.4キロの家で被爆 =西彼西海町横瀬郷=

当時十四歳。銭座町の姉夫婦の家に下宿し、県立長崎工業学校(上野町)に通っていた。一九四五年の八月に入ると空襲が激しくなり、勉強よりも「本土決戦」に備えて防空ごうや戦車ごうを掘る日が増えていた。

「あの日」は朝から空襲警報が出され、家で待機していた。午前十一時前に解除になり、かばんを肩に掛けて登校しようとしたが、なぜか気が重い。ぐずぐずしているうちに近くの監視所の鐘が鳴り、「敵機来襲」の声と飛行機の爆音が聞こえた。「おかしい」と縁側の障子を開けた瞬間に「ピカッ」。

この世のものと思えぬ青白いせん光。一瞬気を失い、気付くと崩れた家の下敷きになっていた。必死ではい出し、浦上の方を見下ろすと家々がすべてつぶれ、町がなくなっていた。ただ、三菱長崎製鋼所(茂里町)の骨組みだけが残っていた。

家に火が迫ってきた。義兄が大きな材木の下敷きになっている。助けを求め道に飛び出すと、やけどで皮膚が茶色に焦げ、よろよろと歩いている人ばかりだった。助けをあきらめ、義姉と力を合わせてやっとのことで義兄を引っ張り出すことができた。

疲れて畑に横たわり、長崎の町をぼんやりと見下ろした。火がぽつり、ぽつり上がったかと思うと、ものすごい勢いで広がり町をのみ込んでいった。夜になると、身内を捜す人々の悲痛な呼び声があちこちに響いた。

翌日、「新型爆弾投下」のうわさを聞き、横瀬から父が駆け付けた。時津から歩いて町の惨状を見てきた父は、道行く人から「長崎工業学校の生徒は全滅だろう」と聞かされたという。父と顔を合わせた瞬間、互いに言葉にならず、涙が止まらなかった。

八月下旬になると、周りの人が体に無数の斑点(はんてん)が出たり、髪が抜けたりして次々と死んでいった。自分もいずれ死ぬのではないかと思い、しばらくは恐怖にさらされる日々が続いた。
<私の願い>
被爆体験を西海町の小中学校で話し続けている。子供が「戦争の怖さを知った」と言ってくれるとほっとする。二度と戦争を起こしてはいけない。平和の尊さを若い人は考え続けてほしい。

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