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私の被爆ノート

焼けた親類の遺骨拾う

2001年8月9日 掲載
山田 源吾(72) 8月12日に入市被爆 =平戸市宮の町=

佐世保市の日宇駅近くに住んでいた十六歳の私は、見慣れたはずの長崎方面からの列車の雰囲気が異様なことに気付いた。八月九日から十日にかけ、到着する列車の乗客の様子がどこか違う。“あの日”の出来事は乗客の一人から聞かされた。

「浦上の方がひどいことになっている」。“強力な爆弾”が落ちたという話で、子どものころ大変お世話になった長崎のおじとその家族のことを考えた。「無事だろうか」。十二日、列車で長崎に向かった。

道ノ尾駅で列車を降り、浦上天主堂からそれほど遠くない山里町のおじの家に向かって歩いた。橋げたに寄り掛かったまま亡くなっている人。全身の皮膚が焼けただれ水を飲むような姿勢で川べりに並んだ遺体―。爆弾の猛威を実感した。

おじの家は跡形もなかった。カトリックの信徒だったおじの家族が、ちょうど食前の祈りをささげていたのか、真っ白く焼けた遺骨が一カ所に固まって残っているだけだった。落ちていたブリキのバケツで骨を拾い集めたが、八分目までしかならなかった。

遺骨を胸に帰宅して二日後の十五日、一通の電報が届いた。三菱長崎兵器製作所茂里町工場で働いていて行方が分からなくなっていたおじ本人からだった。長崎の新興善国民学校の救護所に収容されていると分かり、翌十六日に同所を訪ねた。

そこには、見分けがつかないやけどの人がたくさん横たわり、何度捜してもおじを見つけだすことができなかった。途方に暮れたその時、「おう、来てくれたとね」と、私に気付いたおじの方から話し掛けてきてくれたのだ。おじのけがは相当ひどかったが、幸い治療で大きな傷は残らずに済んだ。

おじが無事と分かり、ほっとした気持ちになった。同時に、祖母とおば、六人のいとこを亡くした悲しみが込み上げてきた。この複雑な思いは生涯、消えることはないだろう。
<私の願い>
原爆や地雷など兵器は絶対存在してはならない。人を思いやる気持ちがあれば戦争はなくなるはず。今、高校生が「一万人署名」で核兵器廃絶を訴える姿勢に感動を覚える。大人ももっと平和実現のために行動すべきだ。

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