田島 勉
田島 勉(60)
爆心地から4キロ離れた自宅(中小島2丁目)で被爆 =東彼川棚町下組郷=

私の被爆ノート

長崎駅の光景、悲惨…

2001年8月2日 掲載
田島 勉
田島 勉(60) 爆心地から4キロ離れた自宅(中小島2丁目)で被爆 =東彼川棚町下組郷=

私はまだ四歳になったばかりで、戦争がどういうものかも分からなかった。当時の記憶といえば、空襲の飛行機が飛び交う中、母親と一緒に防空ごうに逃げ込んだことや、近所の人が竹やりを持って訓練をしている姿をかすかに覚えているくらい。だが、八月九日に見た惨状だけは、五十年以上たった今でもくっきりと脳裏に焼き付いている。

あの日は、母親と一歳になったばかりの妹がいる自宅で遊んでいた。突然のごう音とともに、ものすごい爆風が押し寄せてきた。爆発が起きた瞬間から後は、自分の身に何が起きたのかが全く把握できない状態だった。幸い、自分を含めて母親や妹が無事で何よりだった。

しかし、何よりも強烈な記憶として忘れることができないのは、原爆投下から数日後、母親の実家がある諫早市に疎開する時に通った長崎駅周辺の悲惨な光景だ。

息も絶え絶えに水を欲しがる人、全身が焼けただれた人。目の前に広がる惨状に、こんなことは二度と体験したくないという思いが、幼いながらも心の中に芽生えていたように思う。

戦争が終わり小学生になったころ、学校で原爆投下後の広島の様子を撮影した記録映画を見たことがある。黒焦げになってだれだか分からないような死体が映し出されていた。

自分もこんな状況の中にいたのかと思い、恐ろしくなったことを覚えている。今でも長崎の被爆写真などを見ると、長崎駅の光景がよみがえり、目をそむけてしまうことがある。

原爆の本当の恐ろしさや悲惨さは、実際に体験した者にしか分からない。あの日から五十年以上が過ぎ、被爆者が年々少なくなっていく現状に、被爆体験が風化してしまうような不安を感じることがある。

幼いながらもあの悲惨な出来事を体験した一人として、若い世代に被爆の惨状を伝えていかなければならないという使命感が、年々強くなっている。
<私の願い>
核兵器廃絶や恒久平和を心から願っている。被爆者本人だけでなく被爆二世も健康問題に不安を抱えている人は多い。このような人たちに対する国の支援を充実してほしい。

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