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私の被爆ノート

直視できないほどの惨状

2001年7月27日 掲載
橋本セツ子(70) 爆心地から4キロの本河内1丁目の自宅で被爆 =長崎市本河内町=

上長崎高等小学校一年生で、報国隊員として築町の貯金支局に本河内一丁目(当時)の自宅から電車で通っていた。十四歳だった。

八月九日も、いつものように各郵便局から送られてきた書類の仕分けをしていた。午前十時ごろ、警戒警報が鳴った。班長に「いったん自宅に戻り、警報が鳴りやんだら戻ってくるように」といわれた。「広島に落ちた爆弾が長崎にも落とされるのでは…」と不安になりながら、友人二人と帰った。

電車を降りるなり、今度は空襲警報が鳴った。「爆弾が落ちたらどこの防空ごうに逃げ込もうか」。頭の中はそれだけだった。家に帰るのが精いっぱいで、友人と話をする余裕もなかった。

自宅に無事にたどり着き、居間で日記を書いていた。突然、えも言えぬ光が見えたかと思うと、「ドン」というものすごい音がした。日記を書いていた食卓が吹き飛び、窓ガラスが割れ、部屋中に飛び散った。とっさに近くの米櫃(こめびつ)の後ろに隠れた。外から「はよ、避難せろ」という父の声がし、近くの防空ごうに走った。そこまでどうやって逃げたか覚えていない。

幸い父、母、弟たちは無事だった。市役所に勤めていた姉がなかなか帰ってこないので、「迎えに行こうか」と話していたら、夕方ごろひょっこり帰ってきた。ガラス片で顔をけがしていたが元気だったので安心した。

翌日、防空ごうには、体中水膨れになった人や赤くただれた人が運ばれてきた。あまりにも悲惨な状態で直視できなかった。後で大村の病院に搬送される途中亡くなったと聞かされた。

その日の夕方、私と姉は日見トンネルを通り、網場の山道を抜け、北高江の浦村(当時)の親せき宅に歩いて向かった。着いたのは夜中だった。

玉音放送は自宅で聞いた。意味がよく分からず、両親に尋ねると「戦争は終わった」と教えられた。私は「日本は負けたんだ」と思った。
<私の願い>
あの悲惨な光景は二度と思い出したくない。核兵器は絶対に許せないし、戦争を二度と繰り返してはならない。若い世代に言い伝える必要がある。

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