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私の被爆ノート

遺骨なく砂になった姉

2001年7月5日 掲載
染木マツエ(76) 原爆投下の翌日、岩川町で被爆 =長崎市小菅町=

西彼香焼村(当時)の川南工業香焼島造船所に勤めて三年目。二十歳だった。ニュースは「日本有利」を伝えていたが、空襲は激しくなるばかり。「本当に大丈夫だろうか」と不安に思っていた。

あの日、造船所の事務所で仕事中、顔を下げていても分かるくらい窓の外が光った。「爆弾だ」。机の下に隠れた瞬間、窓ガラスが風で割れた。よほど近くに落ちたと錯覚するほどの衝撃に、ただ事ではないと小菅町の自宅に急いだ。

「浦上はひどかげな」と母が力なく言った。二歳年上の姉は当時、町内の工場で働いていたが、その日に限って浦上天主堂近くの、以前いた工場へ仕事道具を取りに行っていた。「浦上は怖か。小菅に仕事場が移ってよかった」と話していた姉は、一晩待っても帰ってこなかった。

次の日、いてもたってもいられず、まだ火が残る中、歩いて姉を捜しに行った。浦上に近づくにつれて建物はがれきと化し、茂里町の三菱長崎製鋼所では鉄骨がぐにゃりと曲がっていた。浦上方向から担架で運ばれてきた人は全身真っ黒で、顔は真っ赤にはれていた。

現実を目の当たりにして「(姉は)生きてはいないのではないか」との思いにかられた。岩川町辺りで一足早く姉を捜しに来ていた父と会った。「あわれだ。ここから先は見ないほうがいい」。父の静かな一言で、姉の運命を悟った。

数カ月後、家族思いで働き者だった姉は、小さな箱の中に砂だけになって帰ってきた。今も遺骨はない。父は浦上で全身にやけどを負った人たちから「水をくれ」とせがまれた話をしていた。やけどを負った近所の人が、体にうじがわいて苦しむ姿も実際に見た。姉は何万度という高熱をじかに浴び、水を請うこともなく一瞬で亡くなったのだろう。そう思うと、あわれで涙が止まらなかった。

浦上に行かなければ今も元気だったはずの姉。八月九日は毎年、身元不明者の遺骨を納める収骨所で姉をしのんだが、足が悪くなった今、もう会いには行けなくなった。
<私の願い>
一瞬のうちに、何万という命を奪う兵器を、人間はなぜ造り続けるのか。今も空襲の夢を見る。罪のない人が大勢亡くなる戦争は二度と起こしてはならないし、孫たちには絶対に味わわせたくない。

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