原爆が長崎に投下されたその日、県師範学校予科の一年だった私は、音楽・器楽教室でピアノの練習をしようとした矢先だった。落雷のような音とせん光、爆風が押し寄せてきた。
木造りの教室は瞬時に全壊した。私は鉄骨校舎側に座っていたため九死に一生を得た。けがもなかった。しかしガラス窓そばの同級生らは、頭や手足など全身に破片が突き刺さった。
屋外は悲惨。校長先生の腕を取りながら、運動場に出てみると、辺り一面が黄色っぽく夕方のようだった。運動場にいた人は爆風に吹き飛ばされ、せん光を浴びた人は服を着ていたにもかかわらず、後頭部からかかとまで焼けただれた。
「熱い熱い」。泣き叫びながら防火用水に飛び込む姿も。何人かは出血多量で即死。倒れた柱に挟まれた級友ははい出すことができず、生きながら焼け死んだ。「いた場所」によって生死が分かれた。
その日の夜。爆心地方向は燃え盛っていた。コンクリートの側溝に畳を敷き詰め、寝床にした。敵機と思われる爆音が聞こえてくると、側溝に逃げ込んだ。とにかく怖かった。
三日間、救護に明け暮れた。死者は運動場で荼毘(だび)に付した。重傷者は雨戸板に寝かせて搬出、道の尾駅まで線路伝いで運び出した。何往復したかは覚えていない。学校で飼っていた鳥で作ったスープを飲んだが、その味は酸っぱかった。
やけどに苦しむ負傷者にキュウリの搾り汁を垂らすと、大いに喜んだ。冷たくて気持ち良かったのだろう。学校近くの畑からキュウリをかき集め、防空ごうや各避難所にも配った。
十三日午前、佐世保から漁船に乗り込み、古里宇久島にたどり着いた。帰ってから一カ月半、頭髪はぼろぼろと抜け落ち、激しい下痢と微熱の連続に苦しんだ。自分でも気付かない間に海岸べりに立ち尽くし、心配した家族に連れ戻された記憶も残る。
<私の願い>
われわれ当事者ですら、被爆の記憶が薄れつつある。しかし今なお核兵器は存在し、原発や関連施設で事故が相次いでいる。次世代の人々に被爆の実相を語り継がなければならないと強く思う。