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私の被爆ノート

空一面 火の海のよう

2001年6月14日 掲載
西川 ヨシ(74) 爆心地から3.3キロの万屋町で被爆 =西彼琴海町形上郷=

その日は、住み込んでいた本屋(当時の長崎市榎津町)の使いで朝から外出。帰宅中に飛行機の爆音が聞こえてきた。空を見上げた瞬間「ピカッ」と強い光の後、なんともいえないすごい音がした。爆弾が落ちたと思い、すぐ近くの旅館に「助けて」と駆け込んだ。宿泊していたお客が二階から「助けてくれ」と言って下りてきて、大騒ぎとなった。

近くの防空ごうに避難したが、店のことも気掛かりで走って帰った。途中、建物のガラスの破片が散乱していた。店は表のガラス戸が割れて飛び散り、店内は爆風で吹き飛んだ金庫の中のお金が散らばっていた。かなり離れた防空ごうに避難。そこで店の奥さんと会った。夕方、外に出てみると、真っ赤な炎に包まれ、空一面が火の海のようだった。

市内に住んでいる姉や兄弟の安否が気になり、翌日、まず姉を捜しに浦上駅近くまで行った。一糸まとわぬ姿で赤黒く焼けただれ、手足を空に向けて無残な姿で多くの人々が亡くなっていた。へその緒がつながったままの赤ちゃんが素裸の女性の腹から飛び出し、母子とも亡くなっているのを見たら、姉を捜す気力もなえ引き返した。銭座町付近では壊れた建物の中から「お母さん、助けて」という声が聞こえたが、どうすることもできなかった。

十一日は兄を捜すため、稲佐橋付近まで行った。壊れた橋の両側で、一命を取り留めたけが人たちが「水を」「助けて」と頼んでいる姿を見たときは、この世の生き地獄ではないかと思った。九日に落ちたあの化け物は一体なんだったのかと、重い足を引きずりながら帰宅した。

琴海町形上郷に疎開している両親に無事を知らせるため、十二日午前四時に店を出た。松山町付近では煙がくすぶる中、まだ死体があった。そんな中をほかの人たちと歩いた。形上郷の山中にある疎開先に着いたときは午後九時。長い一日だった。
<私の願い>
あれから五十六年、時代は流れて平和な日本に変わった。今から先、二度とあんな生き地獄のような惨状が起きないようにしてほしい。戦争そのものを地球上からなくす努力を続ける必要がある。

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