岡持七月代
岡持七月代(76)
爆心地から2.9キロの出来大工町で被爆 =長崎市本河内町=

私の被爆ノート

悲惨な姿に言葉も出ず

2001年6月7日 掲載
岡持七月代
岡持七月代(76) 爆心地から2.9キロの出来大工町で被爆 =長崎市本河内町=

長崎市出来大工町にあった薪炭(しんたん)会社で、市内の販売店に薪や木炭を卸す仕事をしていた。当時二十一歳。

原爆が投下された八月九日。いつものように木炭などの仕入れ台帳を付けていた。突然「ドン」と音がして激しい横揺れに襲われた。とっさに机の下に潜り込んだ。窓ガラスが割れ、部屋中に飛び散った。外で紫色の光が広がるのが見えた。だれかが「爆弾が落ちた」と言っているのが聞こえた。

揺れが収まり、同僚十人ほどで会社近くの防空ごうに向かった。しかし、中は女性や子供らでいっぱい。入ることができず、会社に戻ることにした。途中、「広島と同じ爆弾が落とされた」と五十歳ぐらいの男性に教えられた。急に恐ろしくなった。

顔にやけどを負い、無表情で歩く男性を見た。上半身の皮膚がはがれていた。あまりの悲惨さに、だれも声を掛けることができなかった。

その日は午前中で仕事を切り上げ、長崎港対岸の江の浦町にあった下宿先に帰ることにした。同僚四人と船に乗るため大波止に向かった。万才町付近まで来ると、裁判所などの建物が倒壊し燃えていた。浦上方面を見ると真っ黒な煙で覆われていた。午後二時ごろ船に乗ったが、船の中は満員。顔や体にやけどを負った人もいた。

翌日から仕事にならず、会社を休んだ。隣人から「遠くに避難した方がいい」と言われた。十五日、二つ下の妹と佐賀県の親せきの家に行くことに。妹と道の尾駅に歩いて向かった。浦上一帯は廃虚と化していた。道はなく、がれきをよけるように無言で歩き続けた。

道の尾駅から汽車に乗った。鹿島駅に着くと、駅員に「戦争は終わった」と告げられた。その日、親せきの家で見た真っ赤な太陽が今でも忘れられない。まるで泣いているようだった。
<私の願い>
紛争の犠牲になった子供たちの姿を新聞やテレビで見るたびにつらくなる。戦争は本当に恐ろしい。二十一世紀は核兵器の存在しない時代になってほしい。

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