西光 知巳
西光 知巳(70)
爆心地から1.2キロの長崎市浦上町(当時)で被爆 =南高口之津町甲=

私の被爆ノート

焼けた背中 地図のよう

2001年5月31日 掲載
西光 知巳
西光 知巳(70) 爆心地から1.2キロの長崎市浦上町(当時)で被爆 =南高口之津町甲=

当時十五歳。県師範学校予科一年だった。あの日は学校の運動場で、生徒を軍人に仕立てるための訓練を受けていた。整列して、軍人勅諭を暗唱させられていた。

午前十一時、次の授業開始の合図が鳴った。上空から飛行機の音がして、教官に尋ねられた級長が「友軍機であります」と答えた。私は直立不動の姿勢でいた。それから何秒後だったか、突然、首筋から背中にかけて割れ竹で力任せに殴り付けられたような感覚が走った。途端に意識を失った。

気が付き、すぐ起き上がって運動場の端に掘られた壕(ごう)に入った。辺りを見回すと、付近のわらぶき屋根に火が付き、白煙がもくもくと上がっている。首筋から背中一面が焼けるように熱く痛かった。壕を出てそばの溝に入り、濁った水を手ですくって背中に掛けた。

裏山の防空壕に駆け込み、翌朝を迎えた。両足のくるぶし、首から背中の皮膚が突っ張るような感じですごく痛かった。着ていた服は、背中の部分がほとんど焼け、縫い代だけがぶら下がって残っていた。

壕の近くに、顔一面やけどで水膨れした男性がいた。「わらだんな(あなたはだれだ)」と聞くと、「おら下田たい」と答えた。同級生の顔も判別できなかったことを、印象深く覚えている。

「汽車が道ノ尾駅まで来ている」と友人から聞き、駅に向かった。途中、道端で焼けただれて動けない人をたくさん見た。

汽車と軍用トラックを乗り継いで、千々石町の実家にたどり着いた。それから約一カ月、まくらを胸にあてがって腹ばいのまま部屋で過ごした。

やけどは、腰と二の腕あたりがなかなか治らなかった。数カ月たって、一緒にふろに入った兄がやけどの跡を見て「おまえの背中は世界地図のごたるばい」と言った。外出できるようになってからもしばらくは、飛行機と雷の音が怖かった。飛行機の爆音がすると思わず木陰や軒下に逃げ込み、友達に笑われた。
<私の願い>
戦争のない、核兵器のない時代が来ることを願っている。実現させるためには、回り道のようだけれど、市民が幅広く手を取り合って運動を進めていくことが有効な手だてだと思う。

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