深堀八重子
深堀八重子(79)
爆心地から1.1キロの大橋町で被爆 =長崎市上野町=

私の被爆ノート

防空ごうは「阿鼻叫喚」

2001年5月24日 掲載
深堀八重子
深堀八重子(79) 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆 =長崎市上野町=

原爆投下の前年の十一月から、三菱兵器製作所で従業員の厚生年金を管理する仕事をしていた。

その日は、書類を職場の地下室に運ぶ作業をしていたが、午前十時五十五分ごろ一階に戻っていた。書類に必要な事柄を書いていたら、突然青白い光が走り、職場に爆弾が落ちたと思った。

どれくらいの時間がたったか分からないが、気が付くと天井がなく、青空が見えた。腰が痛くて立てなかったが、同僚に助けてもらい、逃げ出した。百メートルほど離れた場所にあった木造の建物が燃えていた。

兵器工場を早く離れようと、大橋方面に歩きだしたが、そこに並んでいた工場は全くなくなっていた。道端に人が倒れ、電柱がなぎ倒されているのを見ると、「この世の地獄とはこんなものか」と思った。

岩屋橋付近で、板に押しつぶされた子供が「母さん、母さん」とうめいていた。私は怖さも忘れて涙が出てきたが、どうすることもできなかった。

西町付近の山まで逃げて、段々畑に座り込んでいたら、きのこ雲が見えた。見たことがなかったので、また恐ろしくなった。山を越えた所にあった竹やぶでしばらくの時間を過ごし、大橋付近の川の土手にあった防空ごうに行った。夕方に救護団がおにぎりを持って来てくれた。

その後、実家のある家野町近くの共同防空ごうで母親に再会した。母は顔や胸をやけどしていたが、死んだと思っていた私が生きていたので、泣いて喜んだ。中は泣く人やうめく人で、まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)だった。

父親は翌日になって帰って来たが、ガラスが背中に刺さって重傷を負っていた。その後具合が悪くなり、何を食べても砂をかんでいるような感覚だったようだ。十日後に息を引き取った。

今の長崎は当時とは別世界のようだが、あの惨状は今でも走馬灯のように浮かんでくる。
<私の願い>
戦時中は食べ物もなく、みじめで苦しかった。人間に二度と戦争を味わわせてはならない。核兵器の使用に対しては、世界の国々が厳しく対処してほしい。

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