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私の被爆ノート

孤独感と絶望感 今も心に

2001年5月17日 掲載
松田 圭子(63) 爆心地から1.5キロの家野町で被爆 =長崎市滑石2丁目=

当時、山里国民学校の二年生。七歳だった。学校では日常的に防空訓練をさせられた。先生が笛を鳴らすと、児童はうつぶせになりながら、両手で目を隠し、耳の穴を両親指でふさいだ。

八月九日。学校は夏休み。空襲警報が解除になった後、自宅前の路地で石けり遊びに夢中だった。とても暑い日だった。

路地には高さ五、六メートルのカキの木があった。遊び疲れて木陰に座り休んでいると、いきなりパッと白い光線が広がった。訓練で教わった通りに体が自然に動いたが、どうしても気になって右手の指の間を少し開けてしまい、顔の右側の一部をやけどした。

しばらくして、自宅に駆け戻った。母と一歳になる弟がいた家は、ぺしゃんこになっていた。母を呼んでも返事がなかった。近くにあった三菱兵器大橋工場でたくさんの人たちが悲鳴を上げ、逃げ惑っていた。怖くなり、避難を始めた見知らぬ人の列についていった。

住吉で列からはぐれ、一人さまよった。道の尾近くの川にたどり着き、両手で水をすくい、おなかいっぱい飲んだ。見た目はきれいだったが、気分が悪くなり、吐いてしまった。

あの日の夜は数十人のグループと道の尾にある山で過ごした。とても寒くて震えがとまらなかった。横にいた五歳ぐらいの女の子の毛布に潜り込もうとして、その子の父親にしかられたことがとても悲しかった。

翌朝、現在のJR道の尾駅辺りにあった小屋で一人で横になっていたら、女の人が声を掛けてくれた。家のことや戸町国民学校に勤めている父のことを話すと、長与町の消防団の人を紹介してくれた。

消防団の男性は爆心地を通り、戸町まで自転車を飛ばし、後ろの荷台に父を乗せ連れてきてくれた。その夜は戸町まで父と歩き、学校で過ごした。

八月十一日。救護所になっていた諫早市長田の国民学校に母と弟が収容されていることが分かった。私が家を離れた後、母は弟を抱いて自力で脱出していた。

七歳年上の兄は小浜の友人を訪ねており、被爆を逃れた。幸い家族全員命を落とさずに済んだが、あの日味わった孤独感と絶望感は、半世紀以上たった今も忘れられない。
<私の願い>
最近、若者が簡単に人の命を奪う事件の多さにショックを受けている。核兵器廃絶や恒久平和の実現のため、命の貴さや思いやりの大切さを青少年に伝える活動をしていきたい。

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