当時二十一歳。三年前に長崎へ嫁入りした私は、丈夫なヒノキ造りの家に夫と義母の三人で暮らしていた。
八月九日。空襲警報が解除になった後、私は体調がすぐれず、家で横になっていた。午前十一時二分、窓ガラスの全面に金色の小さい粒が表れたと思うと「ズーン」という地響きのような音がした。目の前のたんすが倒れ、角の部分が右胸に突き刺さった。必死で抜き取ると、鮮血が滝のように流れた。たんすから下着や服を取り、血を抑えながら裏山の防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。
防空壕には十人ほどが横たわり、苦しそうなうめき声が聞こえた。目の前は真っ暗で体が熱かった。そのうちにだれかが「山本さんの家が燃えてる」と叫んだ。でも私はまだ出血が止まらず、起き上がることができなかった。
数時間後、自宅に戻ると、家はぺちゃんこになり焼け焦げていた。別の防空壕から戻った母は口から耳までパックリと皮膚が開き、まるで赤鬼のよう。飽の浦の工場に勤めに出た夫の身を案じながら、二人でただぼう然と焼け跡に立ち尽くした。
ふとわれに返ると、幸町の捕虜収容所にいた連合軍捕虜たちが十五人くらい、銃剣を持った日本兵に連れられ、私の家まで来た。避難してきたのか、原爆の被害を調査するためだったのかは分からないが、全員が傷を負っていた。
私の家の焼け跡を見ていた捕虜の一人が、朝炊いたご飯が竹かごに入れてあるのを見つけた。私は内心「持ち去って行くのではないか」と思ったが、にぎり飯にして皆に配ってくれた。よほど空腹だったのか、皆、手づかみでぱくぱくとほおばった。ほっぺたにご飯粒をつけながら、夢中で食べていた。
ある捕虜は焼け跡から位はいと神棚のお札を見つけ、私に「ママさん、ママさん」と言いながら渡してくれた。被爆直後の惨状の中、私たちは敵も味方もなく人間同士で慰め合った。
あれから五十六年。いろんな苦労があったが、捕虜たちがにぎり飯をおいしそうに食べていた光景は今もはっきりと覚えている。今では皆さん八十歳ぐらいだろうか。一人でも多く健康でいてほしいと願っている。
<私の願い>
被爆の後遺症で夫婦とも苦しみ抜いた。核兵器は絶対に許せないし、愚かな戦争を二度と繰り返してはならない。そのためにも、悲惨な体験を後世に語り継いでいかねばと思う。